ドラ1左腕・川口知哉はなぜプロで通用しなかったのか。1年目のフォーム変更が影響「完全にイップスでした」 (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual,Tanigami Shiro

── 時代が変わっていくなかで、球児にとって何が大事だと思いますか。

「覚悟だと思います。なんのためにここに来たのか、(背番号)1番が欲しいのか、甲子園に行きたいのか、プロでやりたいのか。ならば何をすべきか、という話です。そこまでしなくてもいい、もっと楽しい雰囲気でやりたいというのなら、それに合うチームに行けばいい。ウチの選手のなかにも『プロに行きたい』と言う選手がいるんですけど、『じゃあ、それなりのことはやってあげるけど文句は言うなよ』と(笑)」

── 地獄の練習ですか(笑)?

「僕らの頃のようなことをやったら、みんなすぐ(練習に)来なくなるでしょう。ただ、甲子園でもプロでも、そこを本気で目指すからそれなりのことをやらないといけない。僕は高校時代、限界を超えた時に強くなる、限界の先に成長があると思ってやっていました。毎日限界の手前で終わっていたら、昨日の自分を超えられない」

── ここからはコーチとして、選手をその気にさせることも仕事になります。

「選手が上を目指していくなかで、誰と出会うか、いつ出会うか、というのは大きいこと。指導者で選手は変わりますから。選手にとってすごい人と信頼できる人は違うと思いますし、選手にとってプラスのアドバイスができる、信頼できる指導者になっていきたいなと思っています」

── 川口知哉の母校復帰に期待の目も集まっています。

「ここから僕も試されていくと思いますし、やるからにはもちろん甲子園に出て当たり前と言われるチームをつくって、しっかり結果を出せるように力になっていきたい。そして、僕らが届かなかった夏の日本一、もっと個人的な思いを言えば、25年前の決勝で敗れた智辯和歌山に勝っての日本一。これが今の究極の目標です」

おわり

プロフィール
川口知哉(かわぐち・ともや)/1979年8月25日、京都府生まれ。97年、平安高校(現在・龍谷大平安)のエースとして春夏連続甲子園出場を果たし、夏は準優勝に輝く。同年秋のドラフトで4球団競合の末、オリックスに入団。プロ入り後は制球難に苦しみ、7年間で通算9試合の登板、0勝1敗、防御率3.75に終わり、2004年オフに戦力外通告を受ける。引退後は家業を継ぎ、10年からは女子プロ野球の指導として活動。今春から母校のコーチに就任した。

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