王貞治が「特別な存在だった」と讃える男。江藤慎一は史上初めて両リーグで首位打者となった (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 省三は引退後の兄をこう語る。

「当時、周りの人間に野球の学校とか、独立リーグとか、アメリカのマイナーリーグの選手の育て方とかを熱心に話すんです。それで当時は、"夢見る慎ちゃん"っていうあだ名がついとったんです。だけど今は、もうそれが全部実現しているじゃないですか。プロを目指す選手育成のチームやアイランドリーグやBCリーグもしっかりある。昔、もしあの人に財力があって、もう少し理解者がいてうまくいったら、もっと早く、この環境は整っていたんじゃないでしょうか」

 "夢見る慎ちゃん"は海外での野球普及にも奔走し、伊豆の天城で設立した野球学校はやがて大手スーパーのヤオハンと業務提携をしてヤオハン・ジャパンとなり、プロにも3人の選手を送り出した。その内のひとりであり、来季中日ドラゴンズに外野守備走塁コーチとしての就任が発表された大西崇之はこう回顧した。

「僕は高校を転校したし、大学も中退という波乱に飛んだ野球半生でしたが、天城にいたあの時代にプロの野球選手としての土台を築いてもらいました。江藤さんは気性が激しいイメージで語られているかもしれませんが、僕は厳しいとか、怖いとか思ったことは一度もないですよ。"親父"といつも呼んでいました」

 大西には忘れられない思い出がある。中日ドラゴンズでの現役時代、神宮球場での試合前、解説の仕事でグランドに降りていた江藤を見かけた星野仙一監督(当時)が、「おい、大西! お前がプロに入れたのはあの人のおかげやろ。挨拶してこい」と声をかけてきたのである。

 江藤の志を知るべく、晩年やろうとしたことの足跡を辿ると、スポーツに対する先進的な発想に辿り着いた。野球学校設立時から、裏方として江藤を支えてきた加藤和幸(現明治大学付属明治高校野球部監督)は言う。

「野球学校は、プロを目指す選手予備軍というよりも野球をやりたくてもできない子たちのために作ったのです。今もそうですが、高校に行けなくなった子はもうプレーをあきらめるしかない。江藤はそういう子たちに夢を継続させてあげたかった。つらい環境にある子たちのことを思いやっていて、決して精神主義者ではないんです。『野球は根性やない。技術や』とよく言っていました。独立リーグや性差をつけずに女子の野球チームを作ってのリーグ戦などの構想を早くから、自治体の人たちに語っていました」

 今で言うスポーツ権の享受と言えようか。学校体育に頼らないプレーの場の提供や選手の育成、ヨーロッパのクラブ型スポーツの先駆者としての意志がそこにはあった。


加藤がヤオハン・ジャパン監督時代に江藤から贈られた書。「堪忍は一生の守り本尊 兵は戦場で育つ」加藤がヤオハン・ジャパン監督時代に江藤から贈られた書。「堪忍は一生の守り本尊 兵は戦場で育つ」この記事に関連する写真を見る しかし、江藤は2003年に脳梗塞で倒れた。以来5年に渡る寝たきりの闘病生活を送った。省三によれば、「体が動かず、言葉も発せず、でも眼球だけが動くんですよ。兄貴の写真を見せると目で追うんです。だから絶対意識があるというふうに僕は思っていました」

 壮絶な人生は2008年2月28日に幕を閉じた。加藤は現在も天城で暮らしている。指導の度に東京の高校に出向くのはかなりの労力を要するが、その理由を「ここ天城に江藤の墓があるからです。僕は墓守をしながら、その意志を継いで高校生を教えているんです」と話す。没後すでに13年が経過している。いかに心酔していたことか。

 王会長は最後に言った。

「江藤さんはプロだけでも中日からロッテ、大洋、太平洋と、いろいろチームを移籍されたけど、それぞれのチームでいろんなかたちで江藤さんの業績は残っていると思います。だから、そういう意味で江藤さんの生き様、野球人として人間としての姿を今の若い人たちに伝えてあげてほしいですね」

 その足跡を辿ることは、また昭和という時代に分け入っていくことにつながるのではないか。張本が言う「人生かけて打ちにいった」半生を、同時代を生きた証言者の言葉と資料で紡いでいく。


(第2回:闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで>>)

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る