村上宗隆の100本塁打達成で思い出すルーキー時代の清原和博。黄金時代の西武がその才能を開花させた

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Kyodo News

【「若き日の清原和博」、その天性の輝き】

 ヤクルトの村上宗隆が史上最速となる21歳7カ月で通算100号を達成した。同じく高校卒業後、プロ4年目だった清原和博の21歳9カ月を2カ月も更新する偉業となった。中西太(西鉄)、松井秀喜(巨人)は22歳での達成で、続く張本勲(東映)以下、王貞治(巨人)、豊田泰光(西鉄)、土井正博(近鉄)、掛布雅之(阪神)、山田哲人(ヤクルト)はいずれも23歳での記録なので、村上のすごさがよくわかるはずだ。

 一方、村上に抜かれることとなったものの、これまで最年少記録を保持していた清原和博の若き日々のまばゆいばかりの輝きは決して霞むことはない。

入団1年目から西武で活躍した清原和博入団1年目から西武で活躍した清原和博この記事に関連する写真を見る 1980年代半ばから1990年代にかけて「黄金時代」を築いた名将・森祇晶を筆頭に、西武ナインたちは清原が1986(昭和61)年に入団した当初からその才能に一目置いており、入団から何年も経過したあとでさえ、その鮮烈な記憶を生々しく証言している。

 しかし、森の前任者であり、清原とは入れ違いでチームを去った広岡達朗はこんな言葉も口にしている。

「西武球団も、森も、清原を甘やかしすぎましたよ。腫れ物に触るような扱いをしたことで、本来ならもっと伸びたはずの才能の芽を摘んでしまった。私が監督だったら、もっと清原には厳しく接したし、彼の野球人生ももっと違ったものになっていたと思いますね」

 広岡の言葉にあるとおり、若手時代の清原は別格の存在であり、チームメイトも、報道陣も、そしてファンも、清原の一挙手一投足に熱い視線を注いでいたのは紛れもない事実だった。あらためて、「若き日々の清原和博」を振り返ってみたい。

 清原の西武入団と同時に、この年から指揮官を務めることになった森祇晶は、『捕手ほど素敵な商売はない』(松下茂典/朝日新聞出版)において、初めて清原を見た時の衝撃について、こんなコメントを残している。

「まるで後光が差したかのように、全身から光を放っていた。野球に対するひたむきな姿勢、純粋な心、礼儀正しさ。どれを取っても、それまでのルーキーとは違っていた。この若者を育てられなければ、監督失格の烙印を押されるかもしれないと身震いしたくらいです」

 1982~1985年までの4年間監督を務め、3度のリーグ優勝、日本一に1度輝いた広岡の後任としてチームを率いることになった森にはプレッシャーがあった。さらに、世間が注目するスーパールーキーが加入。清原の大成はチームにとっても、森にとっても最優先事項だったのだ。

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