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村上宗隆の100本塁打達成で思い出すルーキー時代の清原和博。黄金時代の西武がその才能を開花させた (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Kyodo News

【秋山幸二、デストラーデによる絶大なるサポート】

 西武黄金時代には「AKD砲」と呼ばれる超強力クリーンアップが他球団投手陣を震え上がらせていた。「A」秋山幸二、「K」清原和博、「D」デストラーデの3人は、それぞれがそれぞれの個性を誇るスラッガーだった。

 かつて、デストラーデはこんな言葉を残している。

「清原さんとは、本当に兄弟みたいな関係でした。年齢は僕よりちょっと下で、最初の頃は僕が来日してすぐにタイトルを獲ったから、ちょっとジェラシーみたいのがあったかもしれない。だけど、それは最初だけで、いい友だちになって仲よくなりました。来日した時から、清原さんはチーム内のスーパースターだということはすぐに理解しました」

 そして、デストラーデは3人の違いを次のように評した。

「AKDのなかで清原さんが、ヒッターとしてはナンバーワンでした。パワーでは僕がナンバーワン、秋山選手がベストアスリートという印象がありますね。清原さんはヒッターとしては一番才能があったと思います」

 当の清原は「AKD砲」について、こんなコメントを残している。

「当時、自分は四番を打たせてもらっていました。秋山さんは三拍子揃ったプレーヤーでしたから、やはり秋山さんが塁に出ると、どうしてもピッチャーは盗塁を警戒するんで、僕に対しては外寄りの速い球の配球が中心になります。僕としては自分の得意コースでもあるので、とても打ちやすかったです」

 清原による「秋山評」は、さらに「デストラーデ評」へと移っていく。

「そして、後ろにデストラーデがいることによって、彼にはホームランというすごい魅力がありますから、相手ピッチャーは『ランナーを溜めたくない、清原を歩かせてはいけない』ということで、必ず僕と勝負してくれたので助かりました」

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