有名女優が恥をかいた「日本人初の大リーガー」マッシー村上の凱旋
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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第20回 マッシー村上・前編 (記事一覧を見る>>)
大谷翔平の投打が全米を沸かせる時代にあって、「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る好評シリーズ。今回は「初の日本人メジャー」として、サンフランシスコ・ジャイアンツで活躍したマッシー村上さんの語りを伝えたい。
まだドラフト制度すらなかった頃に、高卒2年目の投手が野球留学で海を渡り、メジャーのマウンドで勝利を挙げる──。そんなマンガのようなストーリーは、"規格外"の日本人メジャーリーガーが登場した今も色あせることなく異彩を放ち続けている。
1964年12月16日、羽田空港でアメリカからの帰国記者会見に臨む村上さん(写真=共同通信)
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マッシー村上さんに会いに行ったのは2006年4月。第1回WBC(ワールドベースボールクラシック)が3月に開催され、第2ラウンドの日本対アメリカ戦を観戦中、[日本人初の大リーガー]の名が不意に思い浮かんだ。
試合は米カリフォルニア州アナハイムで行なわれ、日本は完全アウェーの状況で戦った。そのなかでホームタウンディシジョンとおぼしき"疑惑の判定"があり、僕は妙な古めかしさを感じて茫然(ぼうぜん)とした。日本代表にもイチロー(マリナーズ)、大塚晶則(レンジャーズ)とメジャーリーガーがいる"かつてない日米決戦"にもかかわらず、まだ野球の国際化など叫ばれていない、遠い昔にタイムスリップしたような錯覚にとらわれ、そのとき、マッシーさんが頭に浮上したのだ。
1964年、南海(現・ソフトバンク)入団2年目に野球留学で渡米したマッシーさんは、ジャイアンツ傘下の1Aフレズノでリリーフ左腕として活躍。1Aから飛び級でメジャー昇格を果たし、[日本人初の大リーガー]となった。図らずも疑惑の判定に触発され、日本のプロ野球選手として初めてメジャーに挑んだときの状況、心境がどんなものだったのか、知りたくなった。
海外に行くだけで大変だった時代、おそらくは相当の苦労があったはずだ。しかし、メジャーでのマッシーさんは2シーズンで通算54試合に登板し、89回1/3を投げて5勝1敗9セーブ、防御率3.43と結果を残している。その要因は何だったのだろう。
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