ピューンと放りゃあ、三振! マッシー村上がメジャーで通用した理由
無料会員限定記事
「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第20回 マッシー村上・後編 (前編から読む>>)
現役時代を知る人が少なくなっていく「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。法政二高から南海に入団、2年目の1964年に渡米し、留学先の1Aフレズノからサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格、「日本人初のメジャーリーガー」として球史に名を刻んだマッシー村上(村上雅則)さんは、マイナー時代、同僚選手たちのしつこいイタズラに悩まされた。
しかし、何が起きても動じず、ビビらず、度胸がよかったマッシーさんは短期間で米球界になじんでいく。契約の問題から2シーズンで帰国を余儀なくされたとはいえ、マッシーさんの挑戦には日本人が海外で成功するための条件が示されているようだ。
まさに大リーガーという風格。ジャイアンツ時代のマッシー村上(写真=産経ビジュアル)
* * *
悪気がないとはいえ、1Aフレズノでしつこく繰り返される同僚選手の悪ふざけにキレたマッシーさんは、ついにスパナを手に"実力行使"に出た──。ただ、そういうなかでも、マッシーさんと仲のいい選手はいた。イタズラや、からかいなど絶対にしないと確信できる男だったという。そうした行為は一部の選手による日本人蔑視だったのだろうか。
「うーん。そんなでもなかったと思うよ。だって、スパニッシュ系もいるしね。当時、学問的には何もできない連中が多かったよ。でも、野球で一旗揚げたいな、という気持ちが強いからね。いいヤツもいたよ。
そういった連中と一緒にやってて、何て言うかな、負けたら負けたでお互いに悔しくなるし、勝ったら勝ったでワーッてなるし。チーム的にはすごくまとまってたんじゃないかな。だから、フレズノでは嫌なこともあったけど、トータルでは非常に楽しかった」
1 / 7