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松坂大輔にとって「近くて遠かった金メダル」。アテネで寝られず悔やんだ、たった1球の失投 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Reuters/AFLO

 しかし、アテネでも悲願の金メダル獲得は叶わなかった。準決勝に先発した松坂は、8回途中までオーストラリアを1点に抑える。もちろん右上腕の痛みもあった。アドレナリンが出た状態で続投したキューバ戦と違って、ゼロからエンジンをかけなければならなかった準決勝では、その痛みが邪魔をすることはわかっていたはずだ。それでも松坂は前半から飛ばし、ストレートはマックスで160キロを叩き出すなど、5回までに10個の三振を奪った。

 それが5回あたりから、明らかにボールが抜け始める。1失点は6回表のツーアウト1、3塁からスライダーを打たれたライト前へのタイムリー。相手のピッチャーが好投していたとはいえ、まさかその1点に泣くとは思いもしなかった。

「あの外へのスライダーだけだったと思えば思うほど悔しくて、寝られなくて......でも、まだ明日がある、明日は(和田)毅が投げる。4年前のシドニーでは自分が3位決定戦で投げる立場だったんだから、しっかり応援しなきゃって......それで寝ようと思えたんです」

 3位決定戦、日本はカナダを下した。そしてその後の決勝戦をスタンドで観戦し、キューバの金メダルを見届けた松坂は、銅メダリストとして表彰式に参加した。唯一の黒星をつけ、ねじ伏せたはずだったキューバの国歌を聴きながら、松坂はメインポールの隣にあがる日の丸を見つめていた。

「キューバの選手の首にかける金メダルが、僕の目の前を横切ったんです。上原(浩治)さんと『いいな、いいな、これ、取っちゃおうか』って言ってたんです(笑)。銅メダルは意外に小っちゃかったですね。金だと大きく見えたのかなぁ。近くて遠かったな、金メダル......」

 たった1点、されど1点──松坂はその1点を取られてはいけないピッチャーだった。そして日本は敗れた。それでも彼は日本のエースとして、最後までファイティングポーズを崩すことなく、265球を投げ切った。松坂は2度のオリンピックで、期待された金メダルを獲ることはできなかった。

 しかしその後、2006年に行なわれた第1回のWBCで、松坂はMVPを獲得し、日本を優勝へと導いた。「最強のエース、松坂大輔」と綴った14歳の夏から思い描いてきた、日の丸のユニフォームを身に纏っての世界一。松坂は25歳の春、ようやくど真ん中でその座をつかみ取ったのである。

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