「東大だからプロ野球選手になれた」ヤクルト宮台康平が語る青春と今 (3ページ目)

  • 門脇 正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori
  • photo by Sankei Visual

 この湘南高校だが、神奈川県内、いや、全国でも名が通る有数の「文武両道」の公立高校である。毎年、東京大学をはじめ、早稲田、慶應といった難関大に多数の合格者を輩出しながら、野球部やサッカー部、フェンシング部、水泳部などの運動部も盛ん。特に宮台が目指した野球部は、1949年の夏の甲子園で初出場初優勝の快挙を成し遂げた古豪だ。

「湘南に入って、ビックリしました。本当にみんな頭がいいなって。同級生に聞きましたもん、『家でどういうふうに過ごしているの?』『普段どうやって勉強しているの?』って(笑)」

 それは、宮台が入部した野球部のチームメイトにも当てはまることだった。

「みんな勉強にも部活にも本当に一生懸命でした。全力でやっているからこそ、勉強と野球で優れた人の"すごさ"がわかる。みんなライバルで、お手本でもあって、尊敬もできる仲間だったので、文武の両立を目指す人がひとりじゃなかったというのは大きかったですね」

 そうした環境下で、「文」と「武」の両立が一番大変だと感じたのは、高3の時だった。

「受験もあって、夏の大会もある。どちらかに絞れないもどかしさはありました。当時、野球部は、部員を2チームにわけて、朝練を交互に(1日おきに)やっていました。そのなかで、朝練がある時は野球、朝練がない時は、朝練と同じ時間に学校に行って勉強と、生活リズムを変えずに、メリハリをつけて集中したのがよかったと思います」

 迎えた夏の甲子園の神奈川県代表を決める、高校最後の地区予選。湘南高校は3回戦で敗退し、宮台の甲子園という目標はここで断たれることになるが、次の日には気持ちをスパッと切り替えた。

「甲子園に行けなかった悔しい気持ちはありました。だからこそ、大学の高いレベルでもう一度野球をやりたいと思った。けれど、六大学だと東大以外でレギュラーになるのは難しいと考えて、東大がいいんじゃないかなと。浪人することになっても仕方ないと思っていましたが、『湘南にいるんだから、頑張れば現役でいけるんじゃないか』という根拠のない自信もありました」

 しかし、ここで宮台に、東大現役合格の最大の"壁"が立ちはだかる。それが湘南高校の体育祭だった。

 今年で100周年を迎える湘南高校で、卒業したOB・OGが集えば必ずと言っていいほど話題になるのが、この体育祭。全学年がクラス別の縦割りの「色」にわかれて、3年生のリーダー(総務長)のもと、優勝を目指す。なかでも最大のイベントが、大道具、小道具を使いながら、ダンスやマスゲーム的な動きで壮大な表現力を競う「仮装」であり、湘南高校にはこの「仮装」の準備に燃えれば燃えるほど浪人するというジンクスがあるのだ(ちなみに、高3時の宮台は5組で茶色とのこと)。

「たしかに、体育祭の仮装に力を入れすぎると、現役で大学に落ちると言われていました(笑)。多くの生徒が1学期からずっと準備していたなか、僕が本格的に取り組んだのは7月の野球部引退以降。夏休みを含めた9月までの短期間でしたが、それはもう、100パーセントで取り組みましたよ(笑)」

 勉強にも野球にも、さらには学校行事である体育祭の「仮装」にも、一個一個、メリハリをつけて、100パーセントで集中してきた宮台。ついには体育祭の「仮装」のジンクスをも打ち破り、見事、東京大学文科Ⅰ類(法学部)に現役合格を果たした。

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