広岡監督は優秀だが人間性は...。山崎裕之はヘルメットをブン投げた (2ページ目)
無料会員限定記事
「我々選手が金田さんから学んだのは、スポーツ選手としてどれだけ体に気を使わなきゃいけないか、ということでした。ランニング、トレーニングで体をどんどん鍛えて、いじめて、手入れして、食べる。キャンプのときしかできないことをしっかりやったおかげでロッテは日本一になれたと思いますし、その後、自分自身がなんとか20年もできたことにつながったと思います」
はじめは「たまたま20年」だったのが、「なんとか20年もできた」という表現に変わっている。いずれにしても山崎さんは、現役を20年間続けられた理由を伝えようとしている。その点、ロッテで日本一になった74年がちょうどプロ10年目。通算900本安打を超えていた。
「この世界でメシを食えるかな、という感じを持って、レギュラーになったとき、目標にしたのが1000本安打でした」
通算1000本安打は1975年7月13日、準本拠地の仙台・宮城球場で達成された。その準本拠地の時代が終わる77年、山崎さんは自身初めてのゴールデン・グラブ賞を受賞している。
「打撃も含めて、私は自分が憧れたり、上手だなと思った人のプレーをよく見ました。セ・リーグでもオープン戦のときに見る。セカンドだったら、6年目に見た中日の高木守道さんがいちばんでした。あの、ファインプレーも当たり前のように見せるフィールディング、すべて盗むつもりで見たからこそ、そういう賞もいただき、長くセカンドでできたことにつながったと思います」
その守備力と内野の司令塔としての能力を求めたのが、山崎さんが憧れていた広岡達朗だった。78年オフ、当時ヤクルト監督の広岡から直々に誘われた。が、諸事情で移籍は実現しなかった。代わりに移籍することになったのが誕生したばかりの西武で、監督と編成を兼ねていた根本陸夫から話が来た。
全文記事を読むには
こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録より「集英社ID」にご登録ください。登録は無料です。
無料会員についての詳細はこちら