広岡監督は優秀だが人間性は...。山崎裕之はヘルメットをブン投げた
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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第17回 山崎裕之・後編 (前編から読む>>)
ああ、いたねぇ、すごかったなぁ......と思い出すような「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。強打・好守のセカンドとしてオリオンズ、ライオンズで活躍した山崎裕之さんは、プロ入り当初こそ当時の「史上最高額」といわれた契約金のプレッシャーに苦しんだが、セカンドへのコンバートを機にチーム内でのポジションを確立した。
そして1970年、山崎さんは見事にパ・リーグ優勝を果たしたロッテの主力選手として、巨人との日本シリーズに臨むことになる。入団時に「長嶋二世」の異名をとった若手選手は、"本家"長嶋茂雄をはじめとするV9戦士たちとの対戦をどのような心境で迎えたのだろうか。
「つなぐ打撃」で2000本安打を達成した山崎裕之(写真=産経ビジュアル)
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「あのときの私はまだ若かった。憧れていたONが目の前にいて、これ、夢じゃなくて現実なんだ......と思って、最初の打席は足が震えるぐらい緊張しました。つまり戦う前に気後れしてるわけですから、その時点でもう負けてますよね。でも、その後、昭和49年。中日との日本シリーズのときはプロとして自信がついたあとで、度胸もついてましたね」
1勝4敗で巨人に敗れた70年から、4勝2敗で中日を下して日本一になった74年へ、一気に話が飛んだ。この74年、大腸がんのため帰国したアルトマンに代わって4番に入った山崎さんは、シリーズ6試合で22打数8安打、1本塁打、3打点と活躍し、優秀選手賞に選ばれている。話が飛ぶのは自然な流れなのだと思えた。
ただ、その間、71年には永田雅一(まさいち)オーナーが球団をロッテに譲渡。72年には経営が行き詰まった東京スタジアムの解体が決定。翌73年からは宮城・仙台を準本拠地として各地で主催試合を行なうのだが、このとき監督に就任したのが[400勝投手]の金田正一(まさいち)だった。
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