平野佳寿はミスターコンスタント。大学時代の練習が37歳の今につながる

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

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あの時もキミはすごかった〜オリックス・平野佳寿編

「先発でもやれと言われたらやります」

 4年ぶりに日本球界復帰となったオリックス・平野佳寿が、会見で口にした言葉に"あの頃"を思い出した。

"あの頃"とは、4月に2完封を記録し、新人では22年ぶり快挙と話題になったプロ1年目よりもさらに前、京都産業大のエースとしてスカウトたちの注目を集めていた時のことだ。あの頃の平野は、マウンドへ上がれば先発完投は当たり前、頼りになる絶対的エースだった。

通算36勝をマークするなど、抜群の安定感を誇った大学時代の平野佳寿通算36勝をマークするなど、抜群の安定感を誇った大学時代の平野佳寿 大学1年秋に初勝利を挙げて以降、好不調の波も小さく、リーグ戦通算36勝。打線の援護なく敗れる試合もあり11敗を喫したが、通算防御率1.33と驚異的な数字を残した。また、4年間で奪った404三振は、36勝とともに今も残るリーグ記録である。

 大学時代の平野は何試合も観戦したが、打ち込まれる場面を見た記憶がない。それもそのはずで、4年間でノックアウトされた試合は2年春の大商大戦の1試合のみだという。

 そんな平野について、当時書いたある原稿のなかで「ミスターコンスタント」と評したことがあるが、その言葉どおり無類の安定感が光る本格派だった。

 いったい、この安定感はどのようにして生まれるのか。興味を持ち、本人に話を聞くと、すぐにその理由がわかった。平野から返ってくる言葉には、高い確率で"コンディション"に関するワードが入っていたからだ。それだけ繰り返すということは、常にコンディションを意識してプレーしていた証拠だろう。コンスタントの肝は「これだ!」と確信したものだ。

 小学校時代は、4年時がショート、5年でキャッチャーとなり、6年でサード。巨人ファンで"ミスター完投"と呼ばれた斎藤雅樹に憧れていたが、本格的にピッチャーになったのは中学に進んでから。しかも本人の希望ではなく、指導者の勧めによるものだった。

 中学2年秋の新人戦からエースとなったが、常に地区レベルの大会で敗れ「中学時代は最後まで全然目立っていませんでした」と、本人は振り返った。ただ中学時代の最大の変化は、入学時に150センチを少し超えた程度だった身長が、卒業時には178センチまで伸びたことだ。

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