敵将をこんなに意識するものか。野村克也を西武黄金時代のナインが語る (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【「ID野球、何するものぞ」と石毛宏典は言った】

 秋山幸二はのちにソフトバンクの監督となり、胴上げを経験している。あるいは、伊原春樹は2002年から2003年、そして2014年には古巣・西武の監督となった。また、石毛宏典は2002年、2003年にオリックスの監督を務め、伊東勤は2004年から2007年は西武、2013年から2017年はロッテの監督になった。この日本シリーズで活躍したコーチ、選手たちは、のちに監督として辣腕を振るっている。

 その彼らが「野村監督が......」と口にして、指導手腕やチーム運営術について言及している。なかでも、もっとも野村の存在を意識していたのが、西武黄金期のチームリーダー、石毛宏典だった。石毛は強い口調で言った。

「当時、"ID野球"という言葉が本当に何度も繰り返されていましたよね。他の選手がどう思っていたかはわからないけど、僕は『ID野球が何だ。ID何するものぞ』という思いはずっと持っていました。僕らは何度も日本シリーズの舞台を経験していました。もちろん、何度もミーティングをやって、短期決戦においても傾向と対策が重要なことはわかっています。でも、実際のグラウンドに立てば、案外そんなことは気にしていられないんです」

 ところが、無敵を誇っていた西武は、1993年の日本シリーズでヤクルトに敗れた。それはつまり、"野村ID野球"に屈したということだ。この時、石毛はどんな心境だったのだろうか?

「1993年はヤクルトに負けて日本一を逃したけど、別に『ID野球に負けた』とは思わなかったですね。そもそも配球というのは昔からある考えでしたし、打者の打球傾向だって、もともと各チームが分析をしていましたから。ただ、ヤクルトには僕たちよりももっと突っ込んだデータがあり、分析力があったのかもしれないですけどね」

 敵将について熱く語り続ける石毛の姿に、「野村克也」という存在の大きさが逆説的に浮かび上がってくるようだった。あらためて問いたい。西武ナインにとって、野村克也とは何だったのか? どんな監督だったのか?

『詰むや、詰まざるや』の番外編として、「西武ナインから見た野村克也」に、しばらくの間おつき合いいただきたい――。

(第2回につづく)

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