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ドラ1候補なのに指名拒否。杉浦正則と
志村亮が会社員の道を選んだ理由 (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

「どうしてプロ野球に行かなかったんですか?」

 杉浦は、何回この質問を受けただろうか。

 1990年代に、最強を誇ったキューバ打線を相手に真っ向勝負を繰り広げた杉浦の実力を疑う者はいない。同じ1968年生まれの野球人には、野茂英雄(近鉄→ドジャースなど)、長谷川滋利(オリックス→エンゼルスなど)、高津臣吾(ヤクルト→カブスなど。現ヤクルト監督)といった、日本球界とメジャーリーグで活躍したピッチャーがたくさんいる。そんな選手たちに一目置かれていたのが杉浦だった。

 1997年には、当時メッツの監督だったボビー・バレンタインから直々の誘いを受けたが、入団には至らなかった。杉浦が最後まで社会人野球でプレーしたのは、心の真ん中にオリンピックがあったからに他ならない。社会人野球を代表する投手として、日本のアマチュア球界のために世界の舞台で勝たなければならなかった。杉浦はプライドと責任を抱えながら、日本代表のエースとして戦い続けた。

 書籍『プロ野球を選ばなかった怪物たち』の取材時、杉浦は「こういう形でよく取り上げていただきますが、特別な人生を歩んできたとは思っていません」と語った。

「タイミングとか縁とか、そういうものもあってプロに行かなかった。僕がプロ野球に行かなかったのは、オリンピックにはアマチュア選手しか出られなかったというのが大きな理由です。もともと『プロ野球選手がオリンピックに行ける』というルールだったなら、また違った選択をした可能性もあります」

 プロ選手の出場が解禁されるまでは、プロに進む=オリンピック出場を諦めるということだった。だから杉浦は、1996年アトランタ五輪決勝でキューバに敗れたあと、2000年シドニー五輪を目指した。そして、初めてプロとアマチュア選手で構成されたチームの中心にいた。

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