定岡三兄弟の長男・智秋の今。「ノムラの教え」を胸に高知に復帰 (5ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Hiroo Koh

 その後、2003年にフロント入りし、編成部調査部長、野球振興部次長を歴任した。

「野球振興部は、おもに九州地区を回って野球教室をするのですが、2006年に宮崎で野球教室をしている時に倒れてしまって......それで翌年退団し、リハビリに励んでいる時に四国アイランドリーグの存在を知ったんです。

 高知ファイティングドッグスは、巨人や阪急でプレーされた藤城和明さんが監督を務めていたのですが、退団することになった。その際、元広島の佐伯和司さんから話をいただいて、今年球団社長に復帰した武政(重和)さんやGMだった藤川(順一/阪神・藤川球児の兄)さんと話をして、監督をさせていただくことになりました」

 定岡は2008年から6年間、高知ファイティングドッグスの監督を務めた。2011年までは本拠地の高知市野球場にナイター設備がなく、炎天下のなかで試合をするなど、厳しい環境だった。

「初めて独立リーグを経験して、最初は『えっ?』ってなりましたね。このレベルでは厳しいだろうなと。とにかく、ここからNPBに行ける選手を育てるのが第一の目標になりました。体力も技術も足りないし、食事や生活面の問題もある。でも、体を大きくしたいけど、自腹ではできない......足りないことばかりでしたね。

 それに、僕が監督になった当初は、練習場は昼からしか使えなかった。だから、短時間で練習メニューを消化させないといけないのですが、同じことばかりやらせると飽きてしまう。やることは同じでも、言葉を変えないと『また同じこと言っている』と選手は感じてしまう。試行錯誤の連続でした」

 それでも、2009年後期シーズンは優勝を果たすなど着実に力をつけたが、2013年オフに高知ファイティングドッグスを退任。九州総合スポーツカレッジのヘッドコーチとなり、またその系列校の柳ケ浦高校の監督も経験。そして2020年、7年ぶりに高知に戻ってきた。今回は吉田豊彦監督を補佐するヘッドコーチとしての復帰である。

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