定岡三兄弟の長男・智秋の今。「ノムラの教え」を胸に高知に復帰 (2ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Hiroo Koh

 やがて定岡は県内屈指の好素材として注目されるようになる。3年生になった1971年の鹿児島大会は、定岡を擁する鹿児島実業が本命だった。準々決勝では永射がエースの指宿商に3−0で勝利。だが、甲子園出場は果たせなかった。

「決勝で鹿児島玉龍と対戦したのですが、1−2でサヨナラ負け。前評判は圧倒的にウチだったのですが......。決勝には僕を見るために10球団以上のスカウトが来ていたと思います。

 一番熱心だったのは中日でした。だから、選手名鑑を見て『中日のサードには大島康徳さんがいるな』とか、調べていました。でもドラフトで指名されたのは南海。びっくりしましたね」

 1971年のドラフトで南海は1位に野崎恒男(富士重工)、2位に飯山正樹(北川工業高)、3位で定岡を指名した。さらに4位は片平晋作(東京農大)、5位は鶴崎茂樹(筑紫工業高)。ちなみに、定岡と中学で一緒にプレーした永射は広島から3位で指名された。

「入団した時は三塁でした。当時の一軍は、桜井輝秀さんが二塁、富田勝さんが三塁にいましたが、ショートが決まっていなかった。藤原満さん、同期の鶴崎、柏原純一、矢部徳美などの若手内野手が一軍の座を狙っていました。

 初めて一軍に上がったのは、3年目(1974年)の9月。大阪球場で同日に一軍と二軍を行なう親子ゲームに、監督の野村克也さんが二軍の試合を見に来られて、『この試合でヒットを打ったヤツを一軍に上げよう』と。それで僕は4安打を放ち、鶴崎も3安打。それでふたりとも上がることになりました。試合が終わるとマネージャーが来て、『明日から一軍に上がるからサインを覚えておけ』と言われました」

 一軍に昇格した定岡は、以後、遊撃手、二塁手として活躍。1987年まで現役を続けた。定岡にとって財産となったのは、野村監督のもとでプレーしたことだ。

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