定岡三兄弟の長男・智秋の今。「ノムラの教え」を胸に高知に復帰 (4ページ目)

  • 広尾晃●文 text by Hiroo Koh
  • photo by Hiroo Koh

 引退の翌年(1988年)から定岡は南海の育成コーチに就任。だが、この年のオフ、南海はダイエーに身売りされることになる。

「突然の身売りだったので、びっくりでしたね。その頃、南海は弱くて......それも身売りされた原因のひとつだったと思うのですが、野村さんがいてくれたらそこまでチームは弱くなっていなかったと思いますし、身売りはなかったんだろうと思いますね。

 ダイエーになり、福岡に移転してからも3年間コーチを務めましたが、田淵幸一監督の2年目にチームが最下位になると、コーチをクビになり、スカウトになりました。一軍のコーチは全員留任したのに、二軍だけがクビになったのは釈然としませんでしたね」

 スカウトとして新たにスタートを切った定岡は、2年間、アマチュア選手を見て回った。このキャリアも定岡にとっては非常に貴重なものとなった。

「とくに担当エリアは決まっていなかったので、『この選手を見てほしい』と言われれば、どこでも行きました。浜名千広(東北福祉大→ダイエー)や田口壮(関西学院大→オリックス)を見に行ったのを覚えています。

 スカウトとして、とにかく直接見に行くのが基本です。ただ、あまりひとりの選手を見続けていると、その選手のレベルがよくわからなくなってくる。アマチュアばかり見ていると、"眼力"が落ちてくるんです。その時は二軍の球場にいって、ファームの試合を見ていましたね。アマチュア選手の評価は難しかったです」

 1992年に田淵監督が退任し、根本陸夫監督になると、定岡は再びコーチとして呼び戻される。そして、二軍コーチ、一軍コーチ、二軍監督を歴任することになる。

「一軍コーチの時期は短く、二軍での指導歴が長かった。二軍は選手を伸ばしてあげるところなので、まず『何かいいところはないか』と見つけるのが仕事でした。僕の指導者としての姿勢は"育成"で、選手の成長を見るのが楽しみでした」

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