ロス五輪決勝、吉田幸夫は思った「アメリカに勝ったら狙撃されちゃう...」 (3ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

 当時のアメリカは拳銃がわりと自由な国だったので、本気で心配していました。治安もまだあまりよくなくて、選手村もゲートが二重になっていました。まずガチャンと門が開いて、中に入ると、もうひとつゲートがあるんです。バスを降りると荷物検査があって、やっと選手村に入れる。練習へ行くのにもドジャースタジアムへ行くのにも、必ず警護のパトカーとか白バイがついてきましたし、常にものものしい雰囲気でした。

 だから、町へ出るなんてことは怖くてできませんでしたし、ずっと選手村の中にいました。ただ猛者はどこにでもいるもので、昭光と宮本くんは町へ出ていたらしいですね。当時、彼ら、20歳くらいでしたから好奇心旺盛だったんでしょう(笑)。

 1984年8月7日、午後8時に始まったアメリカとの決勝戦は、伊東が先発。吉田はブルペンでスタンバイしていた。登板を告げられたのは日本が3-1と2点をリードした7回、ツーアウト満塁。バッターはのちに巨人でプレーするシェーン・マックだった。

 あの日は抑えでいくと言われていたので、5回くらいからブルペンで準備していました。国際大会での連投は当たり前でしたし、私も当然、投げるつもりでいました。マックはあの試合、第1打席で昭光からホームランを打っていたんです。だからファーストストライクを簡単に取りに行くわけにはいかないと考えていました。

 初球は外スラだったかな。それがボールになって、2球目はアウトローの真っすぐでストライク。これで1-1となって、3球目にインコースへ真っすぐを投げたら、甘いところにいったのにマックが見逃したんです。ああ、これはマックも緊張しているんだなと思いました。

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