2019.08.15

「両方打ちゃあいいんだ」。
柴田勲は、いきなり監督命令でスイッチに

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第3回 柴田勲・前編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしているが、その時代、プロ野球には魅力的な選手たちがゴロゴロいて、ファンを楽しませていたことを忘れずにいたい。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。今回は、巨人戦中心のナイター中継で全国のお茶の間にもおなじみだった”スピードスター”柴田勲さんの証言を伝える。

1966年、南海との日本シリーズは大活躍でMVP。背番号は12だった(写真=共同通信)

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 柴田勲さんに会いに行ったのは2007年6月。もともとのきっかけはスイッチヒッターだった。編集者との打ち合わせで「日本プロ野球初のスイッチは誰なのか」が話題になった。パッと思い浮かんだのが「元祖」とされている柴田さんだったが、いきなり挑戦したとは考えにくい。日米いずれかで参考にした先達がいたはず、ということで資料を当たってみた。

 アメリカでは、1870年に左右両打席に立った選手がいたことが記録に残っていて、それが第1号といわれているという。ただし本格的なスイッチヒッターの登場は20世紀初頭で、たとえば、1919年からジャイアンツとカージナルスで活躍した二塁手のフランキー・フリッシュ。彼は生涯打率3割を残している。

 また、両打ちのパワーヒッターの元祖として、51年からヤンキースで活躍したミッキー・マントルがいる。メジャー18年間で通算536本塁打、生涯打率.298、56年には三冠王とMVPに輝いた史上最強のスイッチヒッター。彼の成功によって、現在に至るまで続々と両打ちの選手が出現することになる。

 日本では柴田さん以前、両打ちとして記録に残っているのは1950年、毎日(現・ロッテ)で右の強打者として活躍した別当薫。ただ、資料には〈どこかの試合に面白半分に左で打っただけである〉と記述されているように、本格的ではなかった。となると、やはり柴田さんが最初なのか──。