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9球団の誘いもあっさり拒否。慶応大左腕は1億よりスーツを選んだ (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

もし1億円もらっても「行きません!」

 プロになれば、一日24時間すべてが野球漬けの生活になる。選手の評価は試合の成績で決まる「数字がすべての世界」と言ってもいい。

「『覚悟のない選手が足を踏み入れちゃいけない』と、思い切ることができなかった」

 どれだけ大学時代にいい成績を残しても、プロにまでは持っていけない。そこではみな、イチからのスタートになる。

「ドラフトで上位指名される選手は、アマチュアでそれなりの成績を残した人か、結果は出ていなくても潜在的な可能性を認められた人。もちろん、プロにヘタな選手なんてひとりもいません。そのなかで活躍するためには、入団してからも心技体のすべてをレベルアップさせる必要がある。プロになったことに満足して、努力を怠って、アマチュア時代よりも力を落とす選手も見ています。プロ野球は、『スター選手になる!』くらいの自信と覚悟がない人間は入ってはいけない世界だと思っていました」

 プロ野球は数字の世界であると同時に、お金の世界でもある。1989年ドラフト会議で史上最多の8球団が競合した野茂英雄(新日鐵堺)には、史上最高(当時)の契約金1億円が用意された。

「進路選択の際、経済的なことはまったく頭にありませんでした。あのころ、『志村は契約金1億円を蹴った』という記事が新聞に載ったこともあります。記者の方に『もし1億円ならどうか?』と聞かれ『それでも行きません』と答えたら、そう書かれてしまっただけ。金額の問題じゃなかった。父親はプロに行ってほしかったのかなと思うところもありましたが、申し訳ないけど自分の判断で決めさせてもらいました」

 1988年春のリーグ戦のころに、志村はプロに行かないことを心に決めた。

 同年の4年秋のリーグ戦では野球人生の最後を優勝で飾ることはできなかったが、通算31勝という数字も、ピッチング内容も満足できるものだった。『1年生の春から全力で戦った』という充実感もあり、思いを残すことなくユニフォームを脱いだ。最後の慶早戦を終えた志村は、登板後のキャッチボールをしなかった。もうこの左腕を使うことはないと決めていたからだ。

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