ドラフトなき時代。プロに「高校野球
経験ゼロの完全試合投手」がいた (2ページ目)
野球が戦勝国アメリカの国技だったこともあり、戦争が終わってまもなく、野球は盛んに奨励された。そんな中、岐阜の大日本土木という会社が野球部を発足させ、主に岐阜商OBたちを中心に日本一を目指すチームを作った。文雄もそのチームに迎えられた。
思えば、岐阜商1年の途中で野球をやめてから5年後、ブランクというより、本格的な野球はほとんど経験していなかった。亨栄商で名を馳せたエース・中原宏の活躍もあって、大日本土木は都市対抗野球で2連覇を飾る。文雄は、控え投手兼外野手として出場。中原が抜けた後、文雄がエースになった。そして1950年(昭和24年)、プロ野球の2リーグ分裂で近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)が誕生すると誘われ、近鉄の契約第1号でプロ野球選手となった。
いまの日本野球の価値観でいえば、「選手として最も重要な時期に野球をやっていなかった」。しかし、文雄は、そのようなハンディキャップをものともせず、わずか3年でプロ野球選手となった。
1年目はパッとしなかった。本来はアンダースロー投手だったが、藤田省三監督の意向から、オーバースローで投げるよう命令された。当時、チームに実績あるベテランのアンダースロー投手がいたからだろう。慣れないオーバースローでは持ち味が生かせず、いい結果を残せなかった。悩んだ文雄は、意を決して監督にアンダースロー転向を直訴する。一度は撥ねつけられたが、やはり結果が出ないため、改めて願い出てようやく認められた。それからは、着実に勝利を稼ぐ投手となった。
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