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カープ一筋28年。赤ヘル復活を託された緒方孝市という男 (2ページ目)

  • スポルティーバ●文 text by Sportiva
  • photo by Nikkan sports

 緒方監督の厳しさは期待の裏返しなのだ。

「緒方監督は、選手自らやる気を起こさせるようにしているんじゃないかな。三村敏之さん(故人)は選手をやる気にさせることがうまかったからね。今の緒方監督を見ていると、そのようにしたいのだろうなと思う」

 そう語るのは、三村政権下(94~98年)でコーチをしていた阿部慶二(現・一軍管理課長)だ。三村は監督時代、「野球の練習に真新しいものはない。だからこそ、飽きさせずに練習をさせることがコーチの仕事」と言い、指導はコーチに一任していた。そこで当時、守備・走塁コーチだった阿部は同じく守備・走塁コーチだった高代延博(現・阪神コーチ)らとアイデアと知恵を絞って、金本知憲や木村拓也(故人)などの若手を主力へと成長させた。そしてなにより、三村監督時代に最もやる気を駆り立てられ才能を開花させたのは、他でもない緒方だった。

 緒方は佐賀・鳥栖高から1986年にドラフト3位で広島に指名され入団。2年目に一軍昇格を果たしたが、代走など途中出場が続き、それ以降もなかなかレギュラー獲得には至らなかった。「身体能力は素晴らしく間違いなく一流選手になると思っていた。ただ、走力が買われ早くから一軍入りしたことで、そこで満足していたところもあった」と、三村は当時の緒方をそう評価したことがあった。

 しかし1995年、母・孝子さんの死を機に緒方は変わった。通夜を終え、鳥栖からとんぼ返りで広島に戻ってきた緒方に対して三村は、「ちゃんと葬儀に参列し、自分が納得してから帰ってくるように」と伝えた。その後、再び広島に戻って来てから緒方は変わった。これまで以上に厳しく練習に励み、努力を重ねるようになったのだ。

「緒方の母は緒方を二度生んだ」――三村はそう表現した。

 そして同年、本格転向した外野で才能が花開いた。課題とされていた内角をさばけるようになったことで弱点がなくなり、ケガで離脱した前田智徳の穴を埋める働きでレギュラーを獲得。翌年には背番号も「37」から「9」に変わった。きっかけを掴んだ緒方はそこから一気にスター選手へと駆け上がり、盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回を獲得するなど、一時代を築いた。2009年に現役を引退した緒方は、翌年から一軍のコーチを務め、今年まで指導者としてチームを支えてきた。

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