「平井正史を大エースにできなかった」山田久志の悔恨
12月特集 アスリート、現役続行と引退の波間 (5)
1994年9月10日、藤井寺球場で行なわれた近鉄対オリックス戦。首位の西武を追う2位攻防戦は、6-6のまま9回裏に入っていた。照明に灯がともる中、近鉄が攻め立て無死満塁。この時、オリックスのベンチではこんなやり取りが行なわれていた。
2年目の95年にリリーフとして53試合に登板し、15勝5敗27セーブを挙げた平井正史
「平井でいきましょう」
三塁側のダグアウトで進言したのはオリックスのピッチングコーチ、山田久志だった。腕組みをしたままグラウンドから視線を外さない指揮官へ、もう一度、続けた。
「平井でいきましょう」
ここで監督の仰木彬が「よし」と頷(うなず)き、ふたりは少し間を空けベンチを出た。
「オリックスのピッチャー渡辺に代りまして平井、背番号33」
リリーフカーから降りた平井正史は、山田が待つマウンドへと小走りに駆け、ボールを受け取った。これが19歳、平井のデビュー戦だった。この時のことを山田は「よく覚えていますよ」と言って、続けた。
「残っていたピッチャーの中でいちばん球が速かったのが平井でした。まあ、誰が行っても抑えられる場面じゃない。とにかく思い切り投げて来い、勉強して来い、と。でも、あんな場面で使うんだから、ようやるよね」
そう言って笑ったが、「打たれても傷は残らないだろう」という思いはあった。それに、絶体絶命の場面からプロの第一歩を踏み出すルーキーにある種のドラマ性を感じたのかもしれない。いずれにしても、通算284勝の希代の大エースが指導者として最も心を昂ぶらせた男が平井だった。
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