「平井正史を大エースにできなかった」山田久志の悔恨 (2ページ目)
結局、平井は最初のバッターを三振に打ち取ったが、続く大島公一にレフトへ犠牲フライを打ち上げられゲームセット。平井は緊張からか、状況を忘れマウンドに戻りかけた。まだ試合が続くと思っていたのだ。そんな一幕もあったが、プロ初登板を終えて宿舎に戻ると、仰木から「部屋に来い」と呼ばれた。恐る恐るドアをノックすると、一枚の封筒を手渡された。
「これで新地にでも行って飲んで来い」
愛媛で育った平井にとって、そもそも新地がどんなところかも知らず、ましてや19歳の未成年。もちろん、出かけることはしなかったが、封筒の中には10万円が入っていた。いろんな意味でプロを実感したデビュー戦。引退会見の席でも「あの試合があったから......」と21年のプロ生活を振り返った平井。山田はかつての教え子の引退についてこう語った。
「21年か......本当によくやったよね。決して順調じゃなかったけど、オレのプロ生活(20年)より長いんだから。よく頑張ったよ」
そう労(ねぎら)いの言葉を口にした山田だったが、当時の平井を思い出すと、苦い思いも蘇(よみがえ)ってくる。
「あれだけの素材を持った投手を大エースに育てられなかった。これが、今でも大きな悔いとして残っているんですよ」
1993年のドラフトで、平井はオリックスから1位指名を受けた。しかし、当初、平井の相思相愛の相手はダイエー(現・ソフトバンク)と見られていた。平井自身、特別ダイエーに愛着を持っていたわけではなかったが、周囲からの情報でダイエーが3位で指名するものだと思っていた。実は、この93年のドラフトから大学、社会人に逆指名権が認められるようになり、ダイエーは1位で渡辺秀和(神奈川大)、2位で小久保裕紀(青山学院大)の指名が決まっていた。そして平井はその次と考えていた。
平井は、愛媛・宇和島東高の3年の時に春夏連続で甲子園に出場し、最速147キロをマークして注目を集めた。通常ならこんな選手を3位で獲るのは難しいところだが、当時のダイエーのフロントには球界の寝業師と呼ばれた根本陸夫がいた。根本は、平井を他球団に指名されないように、社会人チームの行き先をひとつ確保し、「ダイエー以外なら......」という空気を作った。さらに、こんな声も人伝いに平井の耳に入ってきた。
「ダイエー以外の球団から指名されたら、1年間、海外で野球留学のような形をとって、次の年にドラフトでかける方法もある」
2 / 4