「平井正史を大エースにできなかった」山田久志の悔恨 (3ページ目)
しかし、オリックスから1位指名を受けた平井は、憧れの世界への思いを再確認し、ひと晩でオリックスに入ることを決断した。
それからしばらくして、翌年からオリックスのコーチに就くことが決まっていた山田は、契約を済ませた平井とひと足早い対面を実現していた。
「僕の講演会が愛媛であって、知り合いを通じて平井を紹介されたのが最初でした。その時は『頑張れよ』としか言わなかったけど、いかにも鍛え甲斐のあるごつい体をしていたのを覚えています」
年が明けて1年目のキャンプ。平井のボールを見た山田は、「(山口)高志とも(村田)兆治とも違う剛球」に大エースへの期待が膨らんだ。
「一緒に投手コーチをやっていた高志とも、『アイツを、リーグを代表するようなエースに育てるのがオレらの使命だ』っていう話をしたんですよ」
冒頭のデビュー戦を含め、1年目は8試合に登板した平井だったが、最終戦ではプロ初先発も経験。西武相手に5回を無失点に抑える好投を見せると、山田も平井も「来年は先発で」との思いを胸にプロ1年目を終えた。
そして翌年、オープン戦序盤は先発として投げていたが、戦いが進む中で仰木は山田に平井のリリーフ起用を伝えた。
「素直に『はい』という気持ちにはなれなかったよね。やっぱり、大エースになれる素材を見込んでいたから。それに、上体の力だけで投げ込んでくる当時のフォームは、理にかなった投げ方ではなかった。あのフォームで登板数の多いリリーフをやると、いずれ肩かヒジを痛めてしまうと思ったんですよ」
しかし、仰木の考えは変わらずシーズンイン。ロッテとの開幕戦で8回から登板し初セーブを挙げると、ここで平井のポジションは決まった。結局、53試合に登板し、15勝5敗、27セーブ。新人王、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、リーグ優勝の立役者となった。しかし、登板を重ねるごとに山田の不安は高まっていった。
「優勝するような時は、どうしても連投が多くなってしまうんだけど、まだ高校を卒業して2年目で、しかも体に負担の多い投げ方でしょ。ケガの心配が常にありました」
シーズンが進むにつれて自慢の剛球がとらえられることも多くなった。こうした変化を目の当たりにしていた山田は「段々と押し込めなくなっていった」と言った。150キロ台の真っすぐがウリだった平井だったが、空振りを取るのはフォークか高めに抜けた時の真っすぐがほとんどで、ストライクゾーン近辺の球は、空振りよりも、バットを押し込んで打ち取っていた。それがシーズン終盤になると、真っすぐで打ち取れなくなっていた。
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