阪神一筋22年。桧山進次郎が「代打の神様」と呼ばれるまで (4ページ目)

  • 岡部充代●文 text by Okabe Mitsuyo
  • 益田佑一●写真 photo by Masuda Yuichi

 さらに、夫が通算159本塁打なのを知ると、「え~、中途半端!」と突っ込んだ。レギュラーシーズンの通算成績には加算されないが、10月13日、広島とのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ第2戦(甲子園)、現役最後の打席で放ったホームランは、夫人の“ゲキ”にも後押しされた一発だったのだろう。

 星野仙一監督を迎えた02年から、チームは上昇カーブを描き始める。同年4位。翌03年は18年ぶりのリーグ優勝を果たした。桧山は59試合で4番を打ち、また、選手会長としても優勝に大きく貢献した。

 04年は主に5番に座り、35歳にして自己最高の打率.306、84打点を記録した。しかし、翌年は相手先発投手の右左によって右打者と併用されるようになり、06年から「代打」が本業になった。

「球団やチームの“大人の事情”も理解できる年齢になっていた」。桧山はそう振り返ったが、だからと言って、「代打」のポジションを簡単に受け入れたわけではなかった。誰だってレギュラーでいたい。特に桧山は、「打って、走って、守って――その3つができて初めて野球人」という思いが人一倍強い。気持ちの整理がつかないままの代打稼業は、桧山に試練を与えた。

 06年の代打率は.208、07年は.186。惨憺(さんたん)たる数字である。それが08年になると.295に跳ね上がった。「どうすれば1打席で結果を出せるか。そのことと正面から向き合ったのがこの年だった」と言う。

 導き出した答えは、「代打にリズムはない」ということだ。それまでは、スタメンと同じようなリズムを追い求めていたが、初めからないものと考えると、気持ちが安定した。そして、打撃練習では速いボールに対応するため通常より投手に近づいて打ち、練習の1球目を大事にし、試合中に出番が近いと思えば、ベンチ裏から出てグラウンドの照明に目を慣らす……「元祖・代打の神様」である八木裕から見よう見まねで学んだことも含めて、自分なりの“準備”を確立していった。そうして結果を残し、いつしか「代打の神様」と呼ばれるようになったのである。

「代打・桧山」がコールされると、スタンドは大歓声に包まれた。たとえ打てなくても、「桧山が打てなかったらしょうがない」という空気になり、チームの勝敗とは関係なく、桧山を見られたことに満足して帰って行くファンもいた。しかしそれは、ここ数年のこと。かつてはヤジと罵声と怒号が飛び交う中に身を置いていた。「タイガースファンのはずやのに……」と寂しく思ったこともある。

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