阪神一筋22年。桧山進次郎が「代打の神様」と呼ばれるまで (2ページ目)

  • 岡部充代●文 text by Okabe Mitsuyo
  • 益田佑一●写真 photo by Masuda Yuichi

 翌年のキャンプでトレーニングの成果を実感すると、44歳で現役を引退するまで一切、妥協することなくトレーニングを続けた。年齢とともに内容は変化していったが、その"継続"こそが、桧山の22年にも及ぶ長い現役生活を支えたと言っていい。

 継続したのはトレーニングだけではない。代打が主な仕事場になっても、試合前練習では必ず外野でノックを受け、走塁練習もする。また甲子園での試合終了後は、ベンチ裏のスイングルームでバットを振るのが日課となっていた。ベテランの域に入っても、クラブハウスへ引き揚げるのがチームで最後になることは珍しくなかった。

「試合がある日は、いつも朝早くから球場に来て、夜も一番遅くまで残っていることが多かったんじゃないかな。現役を長くやれる選手は、やっぱり違う。アイツは"継続する力"を持っているから」

 桧山が引退を表明した直後、同期入団で同い年の久慈照嘉はそう言っていた。

 00年オフに結婚した紗里夫人も、あまりに変わらないその姿に驚かされたひとりだ。

「朝、家を出て行く時間も、試合が終わってから帰ってくるまでの時間も、結婚してからずっと一緒でした。引退を決めてからも変わらないから、まだ実感がわかないんです」

 そう話してくれたのは、今季最終戦まで残り数試合となっていた頃。その日、巡ってくるかどうかも分からない「1打席」のために、桧山は最後の最後まで最善の準備をしていたのだ。

 一軍に定着したのはプロ4年目の95年。中村勝広監督が途中休養し、後半戦は藤田平二軍監督が代行を務めたシーズンだ。その藤田監督に、オールスター明けの初戦で「4番」に抜てきされた。最初は「4番目の打者」と考えようとしたが、熱狂的なファンやマスコミがそれを許してくれなかった。

 同年、チームは最下位に沈み、翌96年以降も6位、5位、6位、6位、6位、6位――まさに「暗黒時代」だった。それゆえ、桧山は「暗黒時代の4番」と呼ばれるのだが、実は4番を務めたのは01年の60試合が最多で、95~98年はいずれも30試合以下。99年と00年は1試合も打っていない。「チームの顔」としての4番を意識するあまり、「全打席フルスイング」を心掛け、結果、96年から3年連続で100を超える三振を喫してしまったことが、弱いチームの代表としてファンの心に刻まれたのだろう。

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