大谷翔平の衝撃的な場外弾で蘇る52年前の記憶 「異常な飛距離」を誇った強打者スタージェルとの共通点とは (3ページ目)
【証言者が語るスタージェルと大谷翔平の共通点】
1940年生まれのスタージェルは、パイレーツ一筋で21年間プレーしたスラッガーだ。通算本塁打は475本で、メジャー歴代32位タイ。数字だけを見ればトップではないが、彼の真骨頂は「飛距離の異常な長さ」にあった。1979年、スタージェルのパイレーツがワールドシリーズ制覇を果たした年、球団でインターンとして働いていたのが、現在パイレーツの実況アナウンサーを務めるグレッグ・ブラウン氏である。
ブラウン氏はこう振り返る。
「スタージェルの飛距離は、ドジャー・スタジアムだけの話ではありません。モントリオールのオリンピック・スタジアムには、1978年に彼が右翼席に打ち込んだ場所を示す座席がありました。フィラデルフィアのベテランズ・スタジアムでも、アッパーデッキの打ち込んだ地点に印が付けられました。ピッツバーグのスリーリバー・スタジアムにも、2〜4カ所、記念の座席が残されていたんです。スタージェルは、行く先々の球場に伝説の打球痕を残していったのです」
当時はまだインターリーグ戦がなかったため、ナ・リーグ各球場の約半分で、スタージェルが最長本塁打記録を保持していたという。なかでもオリンピック・スタジアムでの一撃は、535フィート(約163メートル)と測定された。その着弾地点の座席は、他の赤いシートとは異なり、特別に黄色に塗られていた。そして2004年、エクスポズがこの球場を去る際、座席はカナダ野球殿堂に寄贈された。
身長188センチ、体重85キロのスタージェルのパワーの源はどこにあったのか。ブラウン氏は、その秘密は独特の「ウインドミル・スイング」にあったと語る。
「ピッチャーの投球を待つ間、彼はずっとバットをぐるぐると回していました。ボールが来る直前にスイングの準備を整える、そんな動作です。打席では圧倒的な威圧感を放ち、バットスピードもものすごく速かった。打球音もボールの飛び方も、他の打者とはまったく違っていました」と証言する。
一方、リック・マンディ氏(79歳)はスタージェルより5歳下で、1970年代にシカゴ・カブスやドジャースでプレーしていた。対戦相手としてよく知る人物であり、現在はドジャースの球団専属解説者兼実況アナウンサーとして大谷を毎日見ている。比較するには、まさにうってつけの存在だ。
「ネクスト・バッターズ・サークルでは、普通の打者は重りのついたバットを振りますが、スタージェルはスレッジハンマー(建設や解体作業に使う、とても大きくて重いハンマーのようなバット)を振っていました。
ふたりには共通点がたくさんあります。パワーはケタ外れで、打球がとても高く上がる。スタージェルが打席に立つと、スタンドのファンは誰も席を立たず、息をのんで見つめていました。大谷も同じです。売店のスタッフさえ販売をやめて、彼の打席を見守るんです」
打球の速さも規格外だった。「私がカブスでプレーした最後の年(1976年)、センターから一塁にポジションを移しました。その最初の試合がパイレーツ戦で、スタージェルが打席に立ち、走者が一塁にいたんです。私は本当に怖かった。ランナーを一塁で抑えながら、スタージェルの打球に備えなければならなかったからです。先日も大谷が打席に入ったとき、内野陣は前進守備を敷いていたのに、一塁手だけは後ろに下がっていました。安全のためですよ」と笑っていた。
ドジャー・スタジアムで左打者が場外本塁打を放てば、実に52年ぶりの出来事となる。そしてそれが、ついに起きたのだ。マンディ氏はこう話していた。
「翔平はいつか必ず場外弾を打つでしょう。あるいは外野スタンドの屋根を壊してしまうかもしれませんね」。実際には、打球は屋根に当たって跳ね、場外のセンター・フィールド・プラザの茂みに消えていった。
つづく
著者プロフィール
奥田秀樹 (おくだ・ひでき)
1963年、三重県生まれ。関西学院大卒業後、雑誌編集者を経て、フォトジャーナリストとして1990年渡米。NFL、NBA、MLBなどアメリカのスポーツ現場の取材を続け、MLBの取材歴は26年目。幅広い現地野球関係者との人脈を活かした取材網を誇り活動を続けている。全米野球記者協会のメンバーとして20年目、同ロサンゼルス支部での長年の働きを評価され、歴史あるボブ・ハンター賞を受賞している。
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