【MLB】スタン・ミュージアルとアール・ウィーバーを偲ぶ (2ページ目)
一方、アール・ウィーバー監督とも、忘れられない思い出があります。まずは、ウィーバー監督の足跡について振り返りましょう。現役時代、マイナーリーグの二塁手だったウィーバーは、決して目立つ選手ではありませんでした。しかし1968年のシーズン半ば、37歳の若さでオリオールズの監督に大抜擢されると、いきなり優れた采配を揮(ふる)って就任2年目にリーグ優勝、そして3年目の1970年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げたのです。1960年代から1970年代にかけて黄金時代を築いたボルチモア・オリオールズは、ウィーバーという名将なくして語れません。
特に1971年のオフに来日したときのオリオールズは、日米野球史上に残る最強チームと言えるでしょう。なにしろその年のオリオールズには、ジム・パーマーをはじめ20勝以上挙げた先発投手が4人もいて、一塁には1970年ア・リーグMVPの巨漢ブーグ・パウエル、二塁には後に巨人入りしたデーブ・ジョンソン、三塁には『人間掃除機』の異名を持つ名手ブルックス・ロビンソン、外野には三冠王と史上初の両リーグMVPに輝いたフランク・ロビンソン、そしてゴールドグラブ賞を8度受賞した名センターのポール・ブレアーと、錚々(そうそう)たるメンバーが揃っていました。
そんな偉大な選手たちと対戦したのが、日本シリーズ7連覇中の巨人です。しかしオリオールズは、V9時代の真っただ中の最強メンバー相手にノーヒットノーランを演じるなど、圧倒的な力の差を見せつけました。40年以上も前の話ですが、このときのオリオールズを見て、「メジャーリーグに憧れた」という野球ファンも多かったことでしょう。
僕が初めてボルチモアを訪れたのは、前述したセントルイスと同じく1977年です。当時のオリオールズはメモリアル・スタジアムという古い球場で、僕がグラウンドに降り立ったとき、真っ先に出迎えてくれたのがウィーバー監督でした。そしてとてもフレンドリーに接してくれて、監督自ら笑顔で取材に応じてくれたのです。これには非常に驚きました。
というのもウィーバーという人物は、気性が荒く、いつも審判に食ってかかるイメージの強い監督だったからです。チームの士気を高めるための行為ではあったのですが、その言動が災いして、通算97回も退場させられた記録を持っています。これは当時、1900年代前半に監督として2700勝以上をあげ、『リトル・ナポレオン』と讃えられたジョン・マグローに次ぐ回数です。
そんな退場の多い監督だったので、僕も会うまでは取っつきにくい印象を持っていました。しかし会ってみると実に温厚で、特に野球のことになると、何時間でも延々と話をしてくれました。ミュージアルしかり、ウィーバー監督しかり、両者のことを振り返れば、「野球に対してすごい情熱を持っている人物だった」という印象です。亡くなったことは非常にショックですが、彼らが来日して強烈な印象を残してくれたおかげで、多くの日本人がメジャーリーグを好きになったのだと思います。
著者プロフィール
福島良一 (ふくしま・よしかず)
1956年生まれ。千葉県出身。高校2年で渡米して以来、毎年現地でメジャーリーグを観戦し、中央大学卒業後、フリーのスポーツライターに。これまで日刊スポーツ、共同通信社などへの執筆や、NHKのメジャーリーグ中継の解説などで活躍。主な著書に『大リーグ物語』(講談社)、『大リーグ雑学ノート』(ダイヤモンド社)など。■ツイッター(twitter.com/YoshFukushima)
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