【MLB】スタン・ミュージアルとアール・ウィーバーを偲ぶ
メジャー歴代4位の通算3630安打など、数々の金字塔を打ち立てたスタン・ミュージアル 1月19日、メジャー史に名を刻んだふたりの人物の訃報(ふほう)が届きました。『ザ・マン』の愛称で親しまれたスタン・ミュージアルと、『希代の名将』アール・ウィーバーです。個人的にも非常に思い入れのあるふたりなので、今回は彼らの偉大な足跡や思い出について語りたいと思います。
まず、ミュージアルは1940年代から1960年代にかけて、セントルイス・カージナルス一筋22年間プレイした名プレイヤーでした。首位打者のタイトルを7度も獲得し、通算3630安打はメジャー歴代4位。輝かしい記録を次々と打ち立て、戦後間もないアメリカ野球界において、古豪ボストン・レッドソックスの『打撃の神様』ことテッド・ウィリアムズと人気を二分していました。ただ、無愛想で一匹狼的な気質のウィリアムズとは対照的に、ミュージアルは人格者としても有名で、ファンのみならずマスコミにも愛される人物でした。よって、いつしか周囲はミュージアルのことを、『ザ・マン(男の中の男)』と呼んだのです。
僕がミュージアルの愛したセントルイスを初めて訪れたのは、1977年のことです。もちろん、ミュージアルはすでに引退していましたが、当時、街の中心街にあったカージナルスの本拠地ブッシュ・メモリアル・スタジアムに足を運ぶと、正面広場にミュージアルの銅像が立っていました。セントルイスは「全米随一の野球都市」と言われるように、古くから熱狂的なファンの多い街。そのシンボルとなっているのが、ミュージアルなのです。現在も新しくなったスタジアムの横にミュージアルの銅像は立ち続け、セントルイスに訪れた野球ファンは必ずそれを眺めに行くと言われています。
ワールドシリーズ優勝通算27回のニューヨーク・ヤンキースには及びませんが、カージナルスはそれに次ぐ11回を記録。ミュージアルは1942年、1944年、そして1946年の計3度、愛するセントルイスに「世界一の称号」をもたらしました。人気を二分したウィリアムズが1度もワールドシリーズを制覇できなかったことも、実に対照的だと思います。
43歳までプレイし、1963年に現役を引退したミュージアルは、周囲から「カージナルスの監督になってください」と勧められました。当時、現役を引退した大スターは、こぞって監督業に憧れる時代でした。名プレイヤーの次は名監督。今の日本プロ野球の風潮と同じです。しかし、非常に控えめな性格のミュージアルは、「私は監督の器じゃない」と周囲の勧めを断ったそうです。その後、カージナルスの副社長やGM業は務めたものの、表舞台に出ることを控え、監督のポストにも最後まで就きませんでした。
偉大な功績を残したミュージアルは、日本にも何度か来日しています。最初に来日したのは1958年、カージナルスが単独チームでやってきた日米野球です。そして現役引退後も、2度ほど来日しました。思い出されるのはワールドシリーズを制覇した1982年のオフ、カージナルスの親会社であるアンハイザー・ブッシュ社が自社ビール『バドワイザー』の宣伝のため、名将ホワイティ・ハーゾグ監督や名手オジー・スミスとともに来日したときのことです。東京・麻布の会員制倶楽部『アメリカンクラブ』でパーティが行なわれ、そこに招待された僕は初めて、あの偉大なミュージアルと面会することができたのです。会話の内容は覚えていないのですが、笑顔を絶やさず応対してくれて、まさしく「ジェントルマン」という印象でした。僕にとっては夢のような、忘れられない思い出です。
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著者プロフィール
福島良一 (ふくしま・よしかず)
1956年生まれ。千葉県出身。高校2年で渡米して以来、毎年現地でメジャーリーグを観戦し、中央大学卒業後、フリーのスポーツライターに。これまで日刊スポーツ、共同通信社などへの執筆や、NHKのメジャーリーグ中継の解説などで活躍。主な著書に『大リーグ物語』(講談社)、『大リーグ雑学ノート』(ダイヤモンド社)など。■ツイッター(twitter.com/YoshFukushima)