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【高校野球】「勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる」北陽野球部の礎を築いた名将・松岡英孝が最後まで貫いた教育者としての哲学 (3ページ目)

  • 谷上史郎●文 text by Shiro Tanigami

U 18日本代表のヘッドコーチを務める元北陽監督の新納弘治氏 photo by Shiro TanigamiU 18日本代表のヘッドコーチを務める元北陽監督の新納弘治氏 photo by Shiro Tanigamiこの記事に関連する写真を見る「とにかく毎日が必死でした。野球以外のことを考えた記憶がないですね。朝になると『最後までやり抜けるんかな......』と弱気になる自分もいて、その気持ちと戦いながら家を出る。そんな毎日でした」

【厳しい練習を乗り越え生まれる和】

 その後、近畿大在学中の2年時、「一緒にやろうか」と松岡に声をかけられ、母校で指導者の道を歩み始めた。「人生を賭けての決断でした」と振り返る。約7年間コーチを務めたのち、1990年8月、29歳で松岡のあとを託された。監督を引き継ぐ際、松岡から繰り返し言われた言葉が今も胸に残る。

「『焦るなよ。焦ると事故(不祥事やアクシデント)を起こすから』と、よく言われました。また、『ひとりの生徒には親がいて、おじいちゃん、おばあちゃんもいる。子どもひとりの命を預かるということが、どれだけ大変なことかわかって指導しなさい』とも。『勝とう、勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる。だから落ち着いて、一人ひとりの選手をしっかり見てやれ』と、繰り返し言っていただきました」

 新納が監督に就任した90年代、大阪勢は全国で次々と結果を残し始める。1990年春の選抜で近大附が優勝すると、1991年には大阪桐蔭が春夏連続で甲子園に出場し、夏は初出場で全国制覇。また1993年春には上宮が日本一を達成した。

 そんななか、北陽も1994年に春夏連続甲子園出場を果たす。エースで3番を務めたのは、のちにオリックスへドラフト1位で入団する嘉㔟敏弘(元オリックスほか)。4番には現・北陽監督の辻本忠が座った。辻本の家は北陽の近くにあり、子どもの頃から身近な存在だった。

「オヤジとグラウンドに練習を見に行ったり、自然と憧れを持って見るようになっていましたね。小学生の頃、寺前さんに握手してもらったこともありました」

 この時期でも、新入生だけで80人ほどいた。1年生の練習場所は、ライト後方にある新幹線高架下のスペース。そこで腹筋、背筋、ダッシュをひたすら繰り返すのが日課だった。授業のない日は、朝9時から夜9時まで練習が続いた。

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