【高校野球】「勝とうと思うと、大事なものが見えなくなる」北陽野球部の礎を築いた名将・松岡英孝が最後まで貫いた教育者としての哲学 (2ページ目)
のちにプロでも長く活躍する長崎慶一が1年生でレギュラーをつかみ、甲子園初勝利も挙げた。2度目の甲子園となった1970年の選抜では決勝まで勝ち進む。アイドル的人気を誇った島本講平擁する箕島(和歌山)に延長12回の末、4対5でサヨナラ負けを喫したものの、準優勝という快挙を成し遂げた。
【負けても絵になる北陽野球】
北陽の14度の甲子園を振り返ると、記憶に残る敗戦が多い。81年夏の名古屋電気(現・愛工大名電)戦では、2年生左腕・高木宣宏(元広島ほか)が工藤公康(元西武ほか)と投げ合いながら、最後はサヨナラ本塁打に泣いた。
さらに松岡にとって最後の甲子園となった1990年の選抜準決勝・新田(愛媛)戦でも、エース寺前正雄(元近鉄ほか)が17三振を奪う力投を見せたが、延長17回にまたしてもサヨナラ本塁打で力尽きた。
ちなみに、この選抜は初戦の帝京(東京)から、玉野光南(岡山)、三重といずれも4対3で勝利、最後は新田に3対4で敗れたが、スコアからも松岡が築いた"北陽野球"の真髄が伝わってくる。
その松岡のもとで7年間コーチを務めた前監督の新納弘治は言う。
「大阪の強豪といえば打力のイメージですが、北陽は違いました。ランナーを背負っても粘り、攻撃でも粘って、最後は1点差で勝つか負けるか。中学時代のスターが集まるチームではありません。ふつうの選手を3年間で育てて、最後の夏にそういう試合ができるところまで仕上げる。それが北陽の野球です」
その土台にあったのは、技術より人間教育だった。松岡は帽子のかぶり方、爪や髪の手入れ、歯磨きまで細かく指導し、「服装の乱れは心の乱れ。教室の乱れは学力の低下。グラウンドの乱れは技術の低下」が口癖だった。
「松岡先生は野球人という前に教育者でした」と新納は振り返る。
ただ、ひとたびグラウンドに立てば、鬼と化した。
新納が入部した年も、新入生だけで150人。岡田彰布の4学年下にあたる新納は、大阪市港区の自宅から約1時間かけて通学していたが、その道のりはいつも憂鬱だったという。1年時は下級生ならではの厳しさに耐え、そこを乗り越えれば今度は熾烈なメンバー争いが待つ。ようやく試合に出られるようになると、責任が重くのしかかる。息つく暇などなかった。
2 / 4


