【夏の甲子園2025】東北学院「悲運のエース」と呼ばれた伊東大夢の今 「過去の自分がひとり歩きして...」 (2ページ目)
「『悲劇のヒーロー』みたいに言われましたけど、そんなことはまったく思っていませんでした。僕は今、立教大の社会学部でメディア系の授業を取っているんですけど、当時の記事は『誇張して書かれていたんだな』と感じます。ひねくれた見方かもしれないけど、いかにも資本主義っぽいですよね。商業的な内容で、読者を増やそうという。なかには思ってもないことを書かれたこともあります。そんな経験をベースに、論文を書いたこともありますよ」
夏が終わり、秋が近づくと、うれしいイベントがあった。甲子園で対戦するはずだった松商学園から、交流試合が申し込まれたのだ。伊東は「きっぱりと終われて、ありがたい機会でした」と振り返る。
長野県松本市の四賀球場を借り切っての試合。伊東はそこで、松商学園と東北学院の決定的な違いを見たという。
「ウチはみんな受験勉強をしていたので、ぶっつけ本番でした。でも、松商学園の選手は木製バットで試合に臨んでいて。大学に向けて、ガンガン練習していたんだろうなと思いました」
試合は4対5でサヨナラ負け。伊東は2回途中からリリーフ登板したが、打者と対戦したのは甲子園以来だった。
【立教大学では準硬式でプレー】
進路を決めるにあたり、周囲は「プロ野球選手になるんでしょ?」と沸き立った。実際に硬式野球を続ける選択肢もあり、伊東は逡巡した。それでも、最後に選んだのは、立教大の準硬式野球部で競技を継続する道だった。
「3学年上の先輩が、立教の準硬式でやっていたんです。『ゆるくて、楽しい部だからいいよ』と言われて。立教は東京六大学でもあるし、入れるのであれば入りたいと思って、決断しました」
大学では、マイペースで楽しもう。そう考えていた伊東だったが、周囲はそうとらえていなかった。
チームの内外から「大型ルーキーが来るぞ」「すごいヤツが入ってくる」という声があがり、伊東の耳にも入ってきた。誰かに紹介される際には、いつも「甲子園で名電を倒した」という枕詞がつきまとった。
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