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大谷翔平が語った「甲子園は悔しい思い出しかない」 150キロマーク、藤浪晋太郎から本塁打も聖地0勝

  • 佐々木亨●文 text by Sasaki Toru

プロ野球選手の甲子園奮戦記(7)〜大谷翔平(ドジャース)

 大谷翔平(現・ドジャース)が初めて甲子園の土を踏んだのは花巻東2年時の夏、東日本大震災に直面した2011年の第93回大会である。岩手大会直前に左足の肉離れ(のちに骨端線損傷と判明)を起こし、本来の姿からはほど遠い状態での全国デビューとなった。

花巻東2年夏に初めて甲子園に出場した大谷翔平 photo by Kouchi Shinji花巻東2年夏に初めて甲子園に出場した大谷翔平 photo by Kouchi Shinjiこの記事に関連する写真を見る

【ぶっつけ本番で150キロ】

 帝京(東東京)との初戦。ライトのポジションにつき、打っては3番を担う大谷が、聖地のマウンドに向かったのは4回表の途中だった。

 岩手大会では1回2/3だけの登板。甲子園でのピッチングは、ほぼぶっつけ本番の状態だった。登板直後、一死一、三塁で初めて対峙したバッターは、帝京の4番・松本剛(現・日本ハム)。148キロのストレートをライトへ運ばれ、犠飛で1点を失う。その後もマウンドに立ち続けたが、帝京打線に追加点を与えて敗戦。

 高校時代の大谷は、ステップ幅を6足半にしていた。だが、左足の痛みを少しでも和らげるために、甲子園ではその幅を5足分に縮めて投げた。そのため下半身の粘りを生かしたピッチングはできず、体の力に頼らざるを得なかった。

 それでも5回表、帝京のエースにして3番の伊藤拓郎(元DeNA)と対峙した場面で、大谷は2年生の甲子園最速タイとなる150キロを計測した。ケガを抱えながらのマウンドで叩き出した「150」は、大谷に秘められた潜在能力を示すものだったことは言うまでもない。

 だが、試合に敗れた大谷の顔には悔しさしか浮かばない。「下半身を使えなくて上半身だけでのピッチングになってしまいました。たとえ球速が150キロでも、120キロでもいいから、とにかく勝ちたかった......」とは試合直後の言葉だ。

 そして、こうも語るのだった。

「万全な状態で投げられないとわかっていましたが、甲子園大会前の取材では『100パーセントの力で投げられます』と言っていました。帝京には、本当の状態を知られたくなかったですから。『自分が先発でいきます』とも言い続けていました」

 大谷の負けん気の強さが透けて見える。

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著者プロフィール

  • 佐々木亨

    佐々木亨 (ささき・とおる)

    スポーツライター。1974年岩手県生まれ。雑誌編集者を経て独立。著書に『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』(扶桑社文庫)、『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボールマガジン社)、共著に『横浜vs.PL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)などがある。

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