大谷翔平が語った「甲子園は悔しい思い出しかない」 150キロマーク、藤浪晋太郎から本塁打も聖地0勝 (2ページ目)

  • 佐々木亨●文 text by Sasaki Toru

【3年春は大阪桐蔭に初戦敗退】

 その約7カ月後の2012年3月、大谷は再び甲子園のマウンドに立った。

 第84回センバツ大会に出場した花巻東は、大阪桐蔭との初戦を迎える。193センチの大谷翔平と197センチの藤浪晋太郎(現・メッツ傘下)。大会を彩る右腕同士の対決は2回裏、エースで4番の大谷が藤浪の変化球を右翼スタンドへ運んで試合が動く。さらに4回裏、7番・田中大樹の右前適時打で加点した花巻東のリードは変わらない。

 だが、6回表に8番・笠松悠哉の左中間二塁打で逆転した大阪桐蔭は、終盤にかけてさらに制球が定まらなくなった大谷を攻め立て大量点を奪う。藤浪と森友哉(現・オリックス)の大阪桐蔭バッテリーは5回以降、花巻東打線を3安打に封じて点を与えなかった。

 大谷は9回表、この試合11個目の四死球を与えると、グラブを換えてレフトのポジションへ向かった。前年の左股関節骨端線損傷からリハビリを経て、本格的に投球を始めたのは大会直前。センバツ前の練習試合を終えて「70%の出来」だった。

 大阪桐蔭との初戦は序盤から制球を乱した。5回表まで無失点も、そこまで85球の球数が物語るように苦しいマウンドだった。投球時に上体が一塁側へ傾く。踏み込む左足はインステップになるなど、投球フォームは崩れた。

「ここまでの四死球は初めてです。初回から状態が悪くて、試合中も修正ができなかった」

 9回途中まで投げて7安打11四死球で9失点。150キロを計測するなかで11奪三振と、その秘めたポテンシャルは随所で見せたが、チームを勝利に導くことはできなかった。

 3年夏は、甲子園に辿り着かなった。全国の舞台で一度も勝つことができないままに、高校野球を終えた。

「僕は甲子園で一回も勝ったことがなかったので、勝ってみたかったというのは、今でも思いますね」

 甲子園は、悔しい思い出しかない──。そう語ったのは、日本プロ野球を経てメジャー挑戦が決まった2017年の年末、今から約7年前のことである。

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大谷翔平(おおたに・しょうへい)/1994年7月5日、岩手県生まれ。花巻東から2012年にドラフト1位で日本ハムに入団。投手と打者の「二刀流」選手として注目を浴びる。15年には、MVP、ベストナイン、最優秀バッテリー賞など多数のタイトルを獲得。18年にエンゼルスに移籍。21年にはア・リーグ3位、アジア人最多となるシーズン46本塁打。22年は史上初となる規定打席&規定投球回到達。ベーブ・ルース以来104年ぶりの偉業となる「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」を達成。23年3月に第5回WBCで大活躍し、14年ぶり3度目の世界一に導いた。同年11月、日本人選手としてのみならずアジア人選手としても初めての快挙となるホームラン王に輝き、二度目のシーズンMVPを獲得。同年12月、ドジャースに移籍を発表した。

著者プロフィール

  • 佐々木亨

    佐々木亨 (ささき・とおる)

    スポーツライター。1974年岩手県生まれ。雑誌編集者を経て独立。著書に『道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔』(扶桑社文庫)、『あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる』(ベースボールマガジン社)、共著に『横浜vs.PL学園 松坂大輔と戦った男たちは今』(朝日文庫)などがある。

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