甲子園初出場の別海高校を変えた「地獄の紋別合宿」 創部46年目の全道初勝利&目標のベスト4進出を果たした
別海高校〜甲子園初出場までの軌跡(4)
2023年、夏。
選手もマネージャーも指導者も、灼熱の太陽を浴びて体力を消耗していた。
新チームを始動させていた別海高校は紋別にいた。朝は宿舎からグラウンドまでの3.5キロのランニングから始まり、午前中からバッティング、ノック、実戦形式の練習とフルコースのメニューを夕方近くまでみっちりこなす。練習での疲労が蓄積されるなか、また朝と同じ距離を走って帰路につく。
これが、今も全員が顔をゆがめる4泊5日の"地獄の紋別合宿"である。
初めて甲子園出場を果たした別海高校の選手、マネージャーたち photo by Taguchi Genkiこの記事に関連する写真を見る
【地獄の紋別合宿の成果】
監督の島影隆啓は「部員たちだけじゃなく、僕らスタッフだって二度とやりたくないくらいです」と、口角を下げる。
「去年の夏は、北海道も異常気象かっていうくらいの猛暑で、部員たちは肉体的にも精神的にもかなりきつかったと思います。極端な話、ズタボロの状態ながらも彼らは僕らについてきてくれて、乗り越えてくれました。あの合宿で、チームは間違いなく成長しました」
例年も夏合宿を敢行していたが、ここまでの過酷さは初めてだったという。それだけ、島影の秋に賭ける思いが強かったわけだ。
"地獄"の成果は明らかだった。代表的な事象を挙げれば、エースである堺暖貴がさらなる飛躍を遂げたことである。
紋別合宿後に向かった札幌遠征でのことだ。練習試合で監督から「完投してみろ」と指令を受けたエースが、2試合で完封劇を披露してみせたのである。堺が手応えを語る。
「夏の大会までは全球全力みたいな感じで投げていたんですけど、そこまで力を入れなくても抑えられるようになったというか。相手バッターとか試合の状況を見ながら力配分ができるようになりましたね」
エースの堺を筆頭としたセンターラインの安定もあり、監督の島影が「戦えるチームになった」と拳に力を込めるほどだった。
その別海にとって、最初にして最大の壁が釧根支部予選だった。北海道道大会に出場できるほどの力があっても、支部で跳ね返される。そんな年は少なくなかった。その理由に島影は、選手のメンタリティを挙げていた。
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著者プロフィール
田口元義 (たぐち・げんき)
1977年、福島県出身。元高校球児(3年間補欠)。雑誌編集者を経て、2003年からフリーライターとして活動する。雑誌やウェブサイトを中心に寄稿。著書に「負けてみろ。 聖光学院と斎藤智也の高校野球」(秀和システム刊)がある。