野球部存続の危機→4年で北海道大会出場 スカウト活動なしの別海高校はなぜ強豪校の仲間入り、甲子園出場を果たせたのか (3ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki

 島影とスタッフたちによる共同作業によって化けた代表格に、堺がいる。

 別海中央中では金澤がエースで、堺はファースト兼3番手ピッチャーだった。そのことから、島影も当初は野手として一本立ちさせるつもりでいたが、ピッチング担当の渡辺からの助言により方針を一変させた。

「堺はピッチャーとして絶対によくなるよ」

 渡辺が島影に進言した裏側を明かす。

「まずはしっかりした体型で、姿勢がよかったんです。それと、堺はもとから腕が横から出てくるタイプでした。ボールもストレートがナチュラルにシュートして、スライダーも横滑りするような軌道だったので、面白いなと思っていたんです。実際に試合で投げさせてみたら相手バッターも打ちにくそうな反応をしていたんで、やっぱりなと」

 これらの要素に加え、堺はランニングやウエイトといった基礎的なトレーニングから、「たくさん食べる」といった地道な作業を黙々とこなせる選手という点でも渡辺の評価を高めた。入学当初は115キロだった球速は、1年が経つ頃には130キロほどまで飛躍し、身長180センチ、体重も80キロ近くと体型も比例して大きくなっていた。

【強固なセンターラインが確立】

 高校に入学した時点で、堺は「ピッチャーをやるとは思っていなかった」と言う。それが、自分の新たな一面と出会ったわけだ。

「体がどんどん強くなっていくのを感じていましたし、1年生の冬が終わる頃には球速と球の質が上がったと実感できました。ピッチャーとしての能力を見出してくれた渡辺さんや監督には、本当に感謝しています」

 最低気温が0度未満の日が年平均で半年以上の厳しい別海町の冬が明け、春が訪れる頃には、チームの方針は固まっていた。

「将来的に堺が投手陣の軸になる」

 チームの土台が、固まりつつあった。

 1年生の夏から4番を打つ中道は、扇の要として確立しつつある。中学までピッチャーが主戦場だった影山も、1年の夏からチームで手薄だったショートに本格転向した。実家が牧場を経営していることから野球部で唯一、酪農経営学科に在籍。平日は実習など多忙で、全体練習は半分しか参加できない日が多かったが、その分、「自主練習では守備に全振りしていました」というほど守備を鍛えた。

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