斎藤佑樹「ストライクを取る感覚を失ってしまった」 崖っぷちの状態を救ったのはデータ導入と背番号1への変更だった
早稲田魂、見せてやれ──ファイターズの吉井理人ピッチングコーチ(当時/現・マリーンズ監督)はピンチを背負った斎藤佑樹のもとへ駆け寄ると、マウンド上でそう檄を飛ばした。2016年、斎藤佑樹にようやく巡ってきたそのシーズンの初先発。6月29日の札幌ドームで、斎藤はライオンズを相手に粘りのピッチングを続けていた。
斎藤佑樹のプロ6年目、0勝に終わりオフに背番号18から1になることが発表された photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【ストライクを取る感覚を完全に失っていた】
2対2で迎えた5回、ツーアウト2塁でした。バッターボックスには3番の森友哉が入りました。この場面で森を歩かせた直後、ピッチャー交代となってしまいました。あとから思えば、森を歩かせたら交代というのがわかっていたら、初球の入り球は真っすぐじゃなくてフォークだったかもしれません。
あの年は5月に一軍で中継ぎを務めるようになって、フォークでカウントを取り、ストレートをインコースへ突っ込むピッチングで結果を出していました。森に対してもそういう配球で勝負したかったという悔いがあったんです。あの日はフォークのコントロールもよかったし、ストレートをインコースの胸元へ投げ込めていました。逃げないピッチングを実践できていたんです。
でも、まだまだボールの強さが足りていない自覚はありました。だから真っすぐをカウントボールにしようにするストライクとボールの出し入れをしながら、コーナーいっぱいを突くコントロールで勝負しなければならなくなる。そうすると、初球から思い切ってストライクゾーンに投げ込めなくなります。
あの時もそうでした。初球、森に真っすぐを投げた時、きわどいところを狙ってボールが先行した......結局は、ずっとそのジレンマのなかで戦っていたような気がします。
札幌ドームのお客さんは4回途中でマウンドを下りた時、拍手をしてくれました。5回を投げ切ることができなかったのに、栗山(英樹)監督も「頑張った」とコメントしてくれる。そのくらいで目一杯のピッチングだという満足感に包まれる空気に慣れてしまうのが僕には怖かったんでしょうね。
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著者プロフィール
石田雄太 (いしだゆうた)
1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。