斎藤佑樹「ストライクを取る感覚を失ってしまった」 崖っぷちの状態を救ったのはデータ導入と背番号1への変更だった (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta

 たとえば僕はスライダーが武器だと思っていましたが、僕のスライダーは極めて平均的な数値で、むしろツーシームやカットボールのほうが平均値から外れていました。だったらツーシームとカットボールでバットの芯を外してゴロを打たせるピッチングは間違っていないのじゃないかと思うようになりました。

 そうすれば、ワンバウンドを投げちゃいけないとか、空振りかファウルか、見逃しのどれかでストライクを取らなきゃって、汲々とする必要もなくなります。ゴロを打たせようと思ったら、ストライクゾーンに投げるストレスがなくなったんです。僕にとって詳細なデータの登場は野球への向き合い方を変えてくれるものでした。

 そしてその年のオフ、背番号を変えることになります。活躍できなくて悔しくて、もうクビになるかもしれないなと覚悟する気持ちもありました。そんな時に背番号の話になって、僕も"球界のエースナンバー"と言われる18番を背負う資格はないと思っていましたし、何かしらの覚悟を決めなきゃという気持ちもありましたから、思い切って変えましょうということになったんです。

 するとチームの人が「高校時代に戻そう」と言ってくれて、背番号1を提示してくれました。それはもう、めちゃくちゃうれしかったし、クビにならなかったこととともに、感謝しかありませんでした。そこまで期待をしてくれていたのかとあらためて感動させられましたし、行き詰まっていた僕を何とか活躍させる方法をチームとして必死で考えてくれていることを肌で感じました。

 超スパルタで泥まみれになってガムシャラに練習しろ、という方法ではなく、高校時代の気持ちや感覚を取り戻せたら斎藤佑樹は輝けるはずだ、と信じてくれたことがありがたかった。だから背番号1には今でも思い入れがあります。高校野球の栄光の番号でもあるし、プロ野球ですごく苦しんだ時代の番号でもある......野球人としての苦楽が詰まった背番号だから、僕にとって1番は特別なんです。

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 プロ7年目を前に、斎藤は背番号1番をつけることになった。プロ6年目の斎藤は1勝もできず、崖っぷちに立たされていた。そんななか、斎藤に与えられた背番号1は今後への期待とともに、これがラストチャンスだという最後通牒にも映った。しかし、背番号1は斎藤から悲壮感を奪い去った。どうせなら楽しく野球をやろうという気持ちを新たにするきっかけとなったのだ。そしてその手助けとなったのが、進化し続けるデータとのさらなる出会いだったのである。

つづく

著者プロフィール

  • 石田雄太

    石田雄太 (いしだゆうた)

    1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

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