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前任校では「結果を出せていない」と解任、新任高では部員5人からのスタート...別海高校のコンビニ副店長監督が果たした甲子園出場 (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki

 その頃、体育館も喜びに満ちていた。

 人口約1万4000人の8倍もの乳牛を育てる、「生乳生産量日本一」の酪農の町。それまで陽の目を浴びることのなかった地元高校の野球部が、春夏通じて初めての甲子園出場を決めたのである。それは、島影にとっても、高校野球の監督として"三度目の正直"での悲願達成でもあった。

【「もう二度と、野球に携わらない」】

 島影が指導者としてのキャリアをスタートさせたのは、母校の武修館からだった。恩師の種市裕友に誘われ2007年にコーチとなり、翌年から監督となった。それまでのバントや盗塁といった小技を中心とした野球から、エンドランや強攻と果敢な野球を取り入れるなどチームに変革をもたらし、08年と10年にセンバツの21世紀枠候補に選ばれたチームは、着実に力を高めていく。

 だが、甲子園まではあと一歩届かなかった。

 10年の夏に北北海道大会準優勝のチームでセカンドのレギュラーだった大友孝仁が、申し訳なさそうに嘆く。

「あそこで自分たちが甲子園に行っていれば、監督はまだ武修館にいたかもしれないって気持ちがあって......。きっかけをつくってしまった代なんだって思っていますから」

 14年3月、島影は学校から「結果を出せていない」と、一方的に監督を退任させられたのである。奇しくも同年夏、島影が下地を築いたチームは初の甲子園を決めた。翌日、自分が勤務するコンビニに<武修館 甲子園初出場>の見出しが躍るスポーツ紙を並べていると、虚しさと悲しさがこみ上げてきた。

「もう二度と、野球に携わらない」

 一度はそう決めていたが、自身が野球少年時代から知る地元の知り合いから、半ば強引に誘われる形で少年野球チームを教えることとなった。これが、のちに別海の監督となるきっかけとなったのだという。

「このチームが2年目に全道大会に初めて出て、町役場に訪問したんです。そこで教育長から『別海高校で監督をやる気はありませんか?』と言われて。わからないもんですね。あの時、少年野球の指導者を断っていたら監督のお話はなかったわけですから」

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