高校野球の名将だが「生徒から抗議文」「チームは崩壊状態に」 蔦文也の孫・哲一朗が「じいちゃんの負の部分」を追いかけた理由 (4ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

【池田フィーバー後は金儲けに走った?】

 監督20年目の1971年夏に甲子園出場を果たし、「さわやかイレブン」で準優勝した時は、練習はかなり厳しかったと思います。部員がどんどんやめていき、最後に11人しか残らなかった、それが事実です。

 じいちゃんの野球観は、うまいやつが野球をやればいいという考え方。だから実力主義になり、自然とレギュラーも固定されてしまいます。ボール拾いは万年ボール拾いで、それをよくないと反対する地域の人とぶつかった時期がありました。

 そんな逆風のなかで甲子園の扉を開いたわけですが、人々の話を聞いて一番印象に残ったのは、こうしてじいちゃんが周りの人を巻き込みながら本来笑い話で終わればいいところを、よくよく突き詰めるとけっこうしんどい思いをしていた人がたくさんいた、ということです。

 たとえば、池田フィーバーのあとはじいちゃんが講演活動に忙しく、練習に顔を出さない日がどんどん増えていきました。簡単に言えば、金儲けに走ったわけです。代わりにコーチの先生が生徒を見ていてくれたのですが、たまにじいちゃんがグラウンドに姿を見せると、突然コーチとは反対のことを言い放って消えていく。

この記事に関連する写真を見る コーチの先生はもちろん、これでは生徒も困惑します。じいちゃんに教わりたくて池田に来たのに教えてもらえず、やがて生徒のほうから抗議文が出されたほど。チームは明らかな崩壊状態に陥っていきました。

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