「サイン間違いは日常的、しまいには口頭で打て!」名将・蔦文也の素顔を池田高校の元主将・江上光治が明かす
「池田高校・蔦文也の正体」前編(全2回)
OB・江上光治インタビュー
「IKEDA」と入ったユニフォームをゆったりと着こなし、野球帽の横からは貫禄の白髪。「山あいの町の子どもたちに、一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」との名セリフとともに、徳島県池田町(現・三好市)を一躍有名にした蔦文也・池田高校野球部元監督。
1974年春の部員11人で戦った「さわやかイレブン」が甲子園で準優勝して話題を集め、監督30年目の1982年夏に念願の初優勝。続く1983年春も制し、その年の夏は準決勝で桑田真澄・清原和博のいたPL学園に敗れて夏春夏の3連覇はならなかったが、蔦監督は「攻めダルマ」の異名でチームとともに絶大な人気を誇った。
蔦監督は、1923年8月28日生まれ。2001年4月に77歳でこの世を去ったが、今年はちょうど生誕100年にあたる。甲子園の歴史に名を残し、多くの人に影響を与えたその人物像について、今回、ふたりの関係者にインタビューし、故人を偲ぶ。
まずは、池田といえばこの人。2年生の時から「やまびこ打線」の3番を打ち、3年時は主将として連覇に挑んだ江上光治氏(58歳)に、当時の様子を回顧してもらった。
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【人の人生を左右させるほどの貫禄】
江上光治 存命であれば100歳ですか、感慨深いですね。僕は中学生で蔦先生と初めて会いましたが、この時の蔦先生の年齢がちょうど今の僕と同じくらいなんです。人の人生を左右させるほどの貫禄で、今の僕とは比べものにならない。
でもよくよく考えてみると、蔦先生って年齢以上にじいちゃんやったんかなと。うちの親ももっと上に見えたと言っていました(笑)。1983年の最後の夏はPL学園に負けましたが、この時、蔦先生の還暦のお祝いを甲子園でやったことを覚えています。
蔦先生で思い浮かぶのは、パイプ椅子に足を組んで座っていた姿です。細かな技術指導はじつはほとんどなく、その代わり、練習をいつもじっと見ていた。
卒業後、しばらくしてあの王貞治さんにお目にかかる機会があったのですが、その時に感じたのが、王さんの「目」が蔦先生と同じだということ。ギョロッとした目はもの静かでやさし気だけど、すべてを見抜いていてごまかしが効かない。まさに蔦先生と重なるものがありました。
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著者プロフィール
藤井利香 (ふじい・りか)
フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。