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「サイン間違いは日常的、しまいには口頭で打て!」名将・蔦文也の素顔を池田高校の元主将・江上光治が明かす (5ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

【ホンマに野球好きのじいちゃんやなって】

 池田というチームがなぜあれほどまでに活躍できたのか。畠山、水野とのちにドラフト1位で指名されるような選手が公立高校で立て続けに出たというのは、あとにも先にも池田だけじゃないでしょうか。でもそれを可能にしたのは、やはり蔦先生なんです。僕もそうでしたが、蔦先生に指導されたいと思ってみんなが集まった。物事を動かすのは、やはり人なんだなと思います。

 世のなかの有名な人って、基本的には普通の人だと思うんです。蔦先生もご多分に漏れず、普通の人、普通のおじいちゃんでした。酒好きは有名で、よく記者の人と夕方から飲んでいる姿を見かけてまたやと思ったりもしましたが、それ以上に好きなのが野球でした。

 池田では自転車にトンボをつけてぐるぐる回りながらグラウンド整備をするんですが、早朝練習で学校に行くとすでに蔦先生が整備を終えていて、さらに昼休みには炎天下にもかかわらずひとりで自転車を動かしていた。

 そんな姿を校舎の窓から眺めながら、「ホンマに野球好きのじいちゃんやな」ってみんなで言っていたものです。そして、野球を通じて僕らと接し、ちょっとずつうまくなり、人として成長している、その様子を純粋に楽しんでいた人ではないかと思います。

 僕は今、八尾ベースボールクラブという社会人野球チームのコーチを経て、監督を務めています。日本生命でもコーチを経験していますが、正式な監督というのは初めてです。そうなってあらためて思うのは、指導者には責任がある。

この記事に関連する写真を見る 勝ち負けではなく、その人の人生の一部を預かったというその責任を理解し、指導できる人でないと、理屈じゃなくて魅力を感じないんだろうな、ということです。

 そしてふと気づくと、蔦先生が言っていたことと同じことを目の前の選手に言っている自分がいます。残念なことに、蔦先生とのおつき合いは高校生の時と同じ人間関係のままでした。生前、先生ともう少しお話しておきたかったなと、今になってちょっと後悔しています。

後編<高校野球の名将だが「生徒から抗議文」「チームは崩壊状態に」 蔦文也の孫・哲一朗が「じいちゃんの負の部分」を追いかけた理由>を読む

写真/共同通信、江上光治


【プロフィール】
江上光治 えがみ・みつはる 
池田高校野球部OB、日本生命勤務。1982年夏、2年生ながら3番レフトで甲子園出場し、優勝。1983年春、主将としてチームを率い、3番サードで優勝。同年夏は甲子園ベスト4。3度の甲子園で、66打数25安打7打点1本塁打という好成績を残す。早稲田大でも主将を務め、卒業後は日本生命へ。現役引退後は部のマネージャーとしてチームを支え、コーチも2年間務める。現在も同社勤務。現在は、社会人野球チーム「八尾ベースボールクラブ」のコーチを1年間務めたのち、監督に。チームを指導し4年目。

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蔦 文也 つた・ふみや 
2023年夏の甲子園に出場した徳島商出身。自身も甲子園を経験。同志社大時代には野球を続けるも学徒出陣で日本海軍の特攻隊員となり、終戦後はわずか1年間、プロ野球選手として東急フライヤーズの投手としてプレー。その後、池田高校の社会科教諭として赴任し、野球部を指導。監督20年目の1971年に夏の甲子園初出場。1974年に、センバツ準優勝。1979年夏も準優勝し、1982年夏に念願の初優勝。1983年春も優勝し夏春連覇。同年夏は、準決勝敗退。甲子園に通算14回出場。1988年夏の甲子園は、岡田康志コーチが監督代行で指揮し、監督40年目の1992年に勇退。2001年4月28日、肺がんのため死去。

著者プロフィール

  • 藤井利香

    藤井利香 (ふじい・りか)

    フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。

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