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巨人・坂本勇人らを育てたコワモテ監督が勝利至上主義からの脱却「選手の舞台を自分が奪ってしまっていた」

  • 田尻賢誉●文 text by Tajiri Masataka
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

「今までは甲子園しか目標においておらず、勝利至上主義の代表みたいな監督でした。僕みたいな指導者は、甲子園に連れていってナンボだと思ってやってきました」

 明秀日立(茨城)の金沢成奉(かなざわ・せいほう)監督は自嘲気味にこう話す。事実、それだけの結果を残してきた。

明秀日立の監督となって初めて夏の甲子園に出場した金沢成奉氏明秀日立の監督となって初めて夏の甲子園に出場した金沢成奉氏この記事に関連する写真を見る

転機は夏の甲子園大会の中止

 当時まったく無名だった青森の光星学院(現・八戸学院光星)をゼロから鍛え上げ、春夏計8回の甲子園出場を果たし、2000年夏にベスト4、01年、03年夏はベスト8に進出するなど、全国屈指の強豪校へと押し上げた。また巨人の坂本勇人をはじめ、プロへ何人もの選手を送り込んだ。

 2012年秋から明秀日立に移り、18年春のセンバツに出場。細川成也(DeNA)、増田陸(巨人)を育てた。

 光星学院の時と同様、明秀日立でも選手を徹底的に鍛えるスタイルで強くしたが、2年前に転機が訪れる。新型コロナウイルスの蔓延だ。金沢監督は、夏の甲子園の中止が決まった時の選手たちの姿を忘れられないという。

「喪失感というんですかね。今まであったものがなくなった時、人間ってこうなるんだなと......。それに対してどう対応していいかわからない。子どもらがここまで落ち込むのかという姿を見て、指導者としての無力感がありました。

 甲子園が世界にも代表される高校生の一大イベントであるがゆえに、野球をやることの意味を指導者が見失っていた。そんな指導者に教わっているから、子どもたちは喪失感を持ってしまった。それにハッと気づかされました」

 活動中止期間が明けると同時に、金沢監督は自ら変化することを決断。毎日の練習では、グラウンドに一番乗りし、水まきや整備をするようにした。

「甲子園はなくなったけど、明日に向かってやりきる姿勢を監督が見せること。野球を教えられる喜びをかみしめていました」

 代替大会となる茨城県の独自大会に向けては選手全員で同じ練習をやるようにした。

「情けない話ですけど、それまでは補欠だって補欠の役割があると。社会に出たって、車を売る人もいれば、造る人もいる。分業制なんだからと、あえて補欠を補欠にしていた。そうじゃないんだっていうのに30年かかりました」

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