糖尿病で「もう野球できへんのかな」からプロ野球選手へ。元阪神・岩田稔が野球への覚悟を問われた「大阪桐蔭・西谷監督の怒号」 (2ページ目)
西谷監督や周囲に支えられ、岩田はグラウンドに戻った。だが、3年夏は腰の故障で投げられず、1型糖尿病を理由に内定先の社会人チームから取り消しを食らう。高校球児にとって地の底に突き落とされるような経験だったが、岩田は前を向いた。
「絶対に見返すという気持ちが強くて、親にお願いして大学に行かせてもらいました。行かせてもらっている理由が理由だけに、途中で投げ出すことなんてできない。絶対その会社よりいいところに就職するって心に決めたので、4年間頑張れたというか。その土壌をつくってくれたのが大阪桐蔭だと思うし、あの厳しい練習に耐えてきたからこそできたものだと思います」
当時の高校野球ではPL学園が頂点に君臨し、大阪桐蔭は背中を追いかける存在だった。目標は打倒PLを果たしての甲子園。晴れ舞台を目指し、ハードな練習に明け暮れた。その原動力は、野球が好きという気持ちだった。岩田が回顧する。
「みんな、甲子園に出たいのは当たり前じゃないですか。なかには縦社会に負けて野球をやめる子もいますけど、桐蔭ではレギュラーになれないのにずっとバットを振っているヤツもいましたね。それはたぶん、ただただ野球がうまくなりたいからだと思う。先輩がそういう面を見せてきているから、後輩からもそういう選手は育っていくと思うんですよね。いま思えば僕も毎日、時間さえあればシャドーピッチングとか、何かしらやっていましたね」
1型糖尿病の希望の星になりたい
大阪桐蔭で野球選手としての土台を築いた岩田は卒業後、西谷監督の母校でもある関西大学に進んだ。大学4年間で最速151キロを投げるまでに成長し、2005年希望入団枠で阪神に入団する。社会人野球を飛び越え、プロの世界に足を踏み入れた。
「1型糖尿病の希望の星になりたい」
入団会見でそう宣言したように、自分が道を切り開きたいという思いがプロでの原動力だった。岩田自身が高校時代に発病した際、「もう野球できへんのかな」とどん底に落ちたが、再び目標に向けて走り出すことができたのはプロ野球選手による支えが大きかった。同じ病気を持ちながら巨人やメジャーリーグで活躍したビル・ガリクソンの著書を読み、岩田は前に進むことができた。
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