甲子園決勝で兄弟校対決の原点。智辯のユニフォームを「朱赤」に変えた男は勝利への執念がすごかった (3ページ目)
智辯和歌山と智辯学園の決勝は甲子園史上初の兄弟校対決となったこの記事に関連する写真を見る 実際は弁天宗のシンボルカラーは紫で、野球部のユニフォームも以前は紫を基調としていたが、おそらく宗教を母体とした県内のライバルである天理も紫。そうした理由もあってなのか、紫から燕脂を経て、朱赤へと変わった。
そうしたなか、高嶋の指導者としての根幹もつくられ、チームは1976年春のセンバツでベスト8、77年にはセンバツでベスト4、夏はベスト16に進出した。日本一しか頭になかった藤田には不満な結果だったが、高嶋にとっては大きな財産となった。
ところが1979年になると、高嶋は監督を外され副部長に。「なんでや、これからとちゃうんか......」の思いはあったが、しばらくすると藤田にこう告げられた。
「来年から和歌山へ行ってくれ」
この年の春、和歌山市冬野に創立された智辯学園和歌山校への異動だった。
智辯和歌山は、県の意向を受けた中高一貫校として誕生した。当時の和歌山には、いわゆる私立の進学校が少なく、勉学優秀な生徒が奈良や大阪へ流れていた。くわえて、1978年には高校生の急増が予想され、こうした状況に県が藤田へ要請した。
当初300名の定員に対し、受験者は301名。だが、入試で成績の低い生徒をきっちり不合格としたため、入学者は約100人。この件について県議会でも取り上げられ問題視されたが、藤田は意に介さず言い切った。
「落ちこぼれを拾うために創ったんやない。和歌山に新風を吹き込んでほしいと言われたから来たんや」
高嶋が赴任当初の野球部は同好会レベルで、初練習の日、グラウンドに集まったのは2人だけだった。
その後、1982年夏に初めて和歌山大会ベスト4。新鋭校の鮮やかな戦いに、紙面には"バイオレット旋風"の見出しが躍った。こちらも当初は紫を基調としたユニフォームだったが、この夏の躍進で藤田が変更を指示。この時も県の高野連から待ったがかかったが、藤田は烈火のごとく反論。
「日本高野連が奈良でOKしとる。なんで奈良がよくて和歌山がアカンのや!」
和歌山にも青春の血がたぎる朱赤を纏(まと)った戦う集団が誕生した。
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