甲子園決勝で兄弟校対決の原点。智辯のユニフォームを「朱赤」に変えた男は勝利への執念がすごかった

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Okazawa Katsuro

 甲子園決勝で史上初の兄弟校対決となった智辯学園(奈良)と智辯和歌山の一戦は、弟分である智辯和歌山が9対2で勝利し、21年ぶり3度目となる夏の頂点に立った。

 アイボリーホワイトに朱赤が映えるユニフォームを着た両軍の選手たちが並んだ閉会式が終わると、ネット裏スタンドの空きスペースで両校の名誉監督である高嶋仁が記者を前に語っていた。

「前理事長がよう言うとったんですよ。甲子園で奈良と和歌山の決勝戦を見たい、それが夢やってね。今日はその言葉を思い出しながら見てました」

智辯学園との兄妹対決を制し、21年ぶり3度目の優勝を飾った智辯和歌山智辯学園との兄妹対決を制し、21年ぶり3度目の優勝を飾った智辯和歌山この記事に関連する写真を見る 智辯学園、智辯和歌山の元理事長・藤田照清(故人)は、強力なリーダーシップで「勉強は東大! 野球は甲子園!」と学校も野球部も、そして甲子園最多勝監督も育てた男である。

「あの人についていくのはほんま大変やった。とくに奈良(智辯学園)の10年間はボロカスでした。試合に負けて報告に行ったら『辞めてまえ! おまえは学校を潰す気か!』って。なんで試合に負けただけでそこまで言われなあかんのかと思いながら、『勝ったらええんやろ』とやるしかなかった。まあ、私の人生で一番の難敵やったですね」

 そう語る高嶋だが、同時に「あの人がおったから今の自分がある」と感謝も忘れない。

 藤田は高野山の寺の子として生まれ、15歳の時に海軍飛行予科練習学校へ入学。戦況が悪化の一途を辿るなか、終戦時期がもう少し延びていれば、その命はどこかで散っていたかもしれなかった。神戸の空襲で両親を亡くし、寺は兄が継いだため、結婚後は社会に出た。

 会社経営で手腕を発揮したあと、ある縁から智辯学園に学監(学校長を補佐し、学務をつかさどり、学生の監督をする役)として関わることになった。その後、実質的に経営を担うようになる。

 学校経営はもちろん素人だったが、「やるからには......」と持ち前の負けん気と情熱を発揮。学業面の実績アップを第一に、学校に団結力と勢いをつけるとして野球部の強化にも尽力。1968年の夏に甲子園初出場を果たすと、翌年、一気に部員が増加。若くて体力のあるコーチを探していたところ、1970年春に高嶋が赴任した。当時の監督は高嶋のよき理解者となる和泉健守、部長は藤田が務めていた。

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