大阪桐蔭が9回2死からの逆転劇。「何かをやってくれる男」がサイクル安打で奇跡を起こした
大阪桐蔭のシート打撃は、1991年当時から受け継がれている伝統的な練習メニューである。2点ビハインドの9回二死ランナーなし、カウント3ボール2ストライク。絶体絶命のピンチからどのようにして形勢を変えていくのか? シチュエーションを細かく設定することで、練習とはいえ緊張感が漂う。
「練習のための練習では意味がない」
これは監督の長澤和雄が掲げる金科玉条のようなものであった。
「フリーバッティングも練習に取り入れていましたけど、それだけだとどうしても『失敗したけどええわ』って気が抜ける瞬間がある。打つほうも、守るほうも、走るほうもプレッシャーがかかる状況で、どうやってランナーを進めて、ホームに還すのか。練習から勉強させることが大事なんです」
その成果が結実したのが、1991年夏の甲子園3回戦だった。
1991年夏の甲子園の秋田戦でサイクル安打を達成した大阪桐蔭の澤村通 初戦(2回戦)で樹徳(群馬)に快勝した大阪桐蔭は、次の対戦相手が秋田に決まると、選手の誰もが"勝利"を確信した。
今でこそ地域格差がなくなってきた高校野球界だが、当時の大阪代表にとって東北勢のチームは負けるわけにはいかない格下のような存在だった。
初回に先発した背尾伊洋が本塁打を含む3失点と出鼻をくじかれても、チームに動揺はなかった。
「まだ初回。3点なんてすぐに返せるやろ」
相手が秋田であるがゆえの不遜も多少なりとも潜んでいたとはいえ、大阪桐蔭には「いつでも点が取れる」という自信があった。
3番の井上大と4番の萩原誠が大きな得点源ではあったが、1番から4番までをひと区切りとし、5番から8番までを「裏のクリーンアップ」と位置づけていた。井上と萩原、そして9番の投手は固定であるが、長澤は選手の状態や相手チームによって打順に微調整を施していた。
「1番からはもちろんだし、何番からでも『選手たちは点を取ってくれる』と信頼していました。あの夏は、澤村をよう動かしました。大阪大会ではあまりに調子が悪くて、甲子園でも初戦は8番でしたからね」
澤村通からすれば、8番は当然のこと、6番ですら「嫌だった」と不満はあったが、結果的にこの打順が運命を分けることになる。
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