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ギリギリの出場、主将離脱、父子鷹...。東海大相模が劇的ストーリーで10年ぶりの優勝 (3ページ目)

  • 田尻賢誉●文 text by Tajiri Masataka
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

 予定より早い登板となったが、準々決勝、準決勝と2試合連続完投している石田でも乗り切る余力はあった。

 明豊にとって惜しまれるのは、初回の走塁だ。一死から一塁走者の阿南心雄(しゆう)がスタートし、3番・竹下聖人の打球はライト線へのライナーになった。ライトの守備位置、飛んだ場所から瞬時にヒットとわかる打球だったが、阿南は一、二塁間の真ん中を過ぎたあたりで一瞬止まり、打球の位置を確認。さらに、ベースランニングも大きく膨らんでしまい、本塁で間一髪タッチアウトになってしまった。

 明豊は4回にも一死満塁から阿南の犠飛で1点を勝ち越すが、バックホームの間に二塁走者の太田虎次朗が三塁を狙ってアウト。明豊の川崎絢平監督は「前半にあと1本出なかったことが後半に響いた。もう1、2点入っていれば」と悔やんだが、2つの走塁死が大きな痛手となった。

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 明豊の攻撃をしのいだ東海大相模は、9回裏にサヨナラで勝負を決めた。

「昨年秋のサヨナラ負けから始まったチームが、最後サヨナラで終われてよかった」

 門馬監督はこのチームにとって、象徴的な終わり方だったと強調した。そして表彰式ではキャプテン代行として息子の功が紫紺の優勝旗を受け取った。

「門馬という選手、功という息子。いろんな思いが交錯しました。優勝旗を自分の息子が手にするなんてなかなかないこと。こんなにうれしいことはない」と父が言えば、息子は「自分にしか味わえないこと。お父さんを日本一にしたんだと素直にうれしいです」と笑顔を見せた。

 不在のキャプテンに対しても、「日本一という最高のプレゼントができたと思う」とサヨナラの一打を放った小島が言えば、エースの石田は「一番に伝えたい」と語った。

 思えば、東海大相模が前回センバツで優勝したのは10年前。東日本大震災があった2011年だ。

「ウチは東北ではないですけど、(コロナ禍と同様)あの時も多くの制限、制約があり、生活がうまくいかなかった。その時のことを思い出しました」

 10年ぶりのセンバツ制覇は、東海大相模にしか完結できなかったストーリーに導かれたような優勝だった。

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