高校野球の儀礼的なものをなくす。早大の「補欠主将」が聖カタリナで取り組んでいること (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Kyodo News

【4シーズン連続優勝の礎を築いた】

 100人を超える部員が一丸となることは難しい。ひとりでも勝手な行動をする者がいれば、組織はおかしな方向に進んでしまう。

 当時の25人のベンチ入りメンバーの中で、4年生は7、8人ほど。完全なレギュラーと言えるのは、エースの和田毅(福岡ソフトバンクホークス)と副キャプテンの伊藤貴樹くらいしかいなかった。

「僕が試合に出ることが少なかったので、試合に関することは和田が言ってくれたほうが効果がある。同期にも後輩にも助けられました」

 浜田高時代に2度甲子園に出場した和田は、1年生の秋に神宮デビュー。2年生から先発を任され、次々に白星を積み重ねていき、江川卓(法政大学、読売ジャイアンツなど)が持つ東京六大学の奪三振記録を塗り替えた。4年間で挙げた勝利数は27。奪三振476は、20年近く経った今も更新されることのない大記録だ。

 3年生の時、すでに大学球界を代表する選手になっていた鳥谷敬(千葉ロッテマリーンズ)がショートの定位置に座り、越智はベンチを温めた。

「鳥谷は味方から見てもすばらしい選手で、間違いなくプロに行くだろうと思っていました。僕自身、社会人野球でプレーすることも考えたんですが、現実的にはこのまま野球を続けても難しいと感じていました」

 鳥谷は、早稲田大学の4年間で通算115安打を記録。2度の首位打者、5度のベストナインを獲得している。手強いライバルが同じチームにいたことは、越智にとって不運としか言いようがない。

 2002年春のリーグ戦を制した早稲田大学は、和田や鳥谷の活躍で、秋のリーグ戦でも優勝を飾った。2003年秋までのリーグ4連覇の礎を築いたのは、間違いなく「補欠のキャプテン」の越智だった。

「結果的に優勝できたのでそう言ってもらえるんですが、勝てなかったらどうなっていたのか......。試合に出ていなかったこともあって、僕はグイグイと引っ張るタイプではありませんでした。その分、信頼できる人に任せました。『ここは頼むぞ』と」

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