記録的猛打から20年。智弁和歌山
OBが語るあの夏の記憶と「根性論」
今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により、春夏の甲子園大会が中止となった。なかでも夏の甲子園はこれまで数々の名勝負が繰り広げられ、高校野球ファンを虜にしてきただけに残念でならなかった。
そんななか、20年前に打ち立てられ、いまだに破られていない記録がある。2000年夏に智弁和歌山が樹立した1大会通算100安打と13本塁打だ。この記録に近づいたチームはいくつかあったが、追い抜くことはできなかった。
圧倒的な攻撃力で2000年夏の甲子園を制した智弁和歌山ナイン 以来、智弁和歌山には「強打」「豪打」のフレーズが付いてまわり、全国の高校を震え上がらせた。当時のメンバーで「5番・捕手」として活躍した後藤仁は、今でもあの夏のことを鮮明に記憶している。
「あの時、自分たちはとにかくよく打ったというイメージが強いと思うんですけど、1回戦(新発田農/新潟)はバントがひとつも決まらなくて......翌日はバント練習ばかりしていたんですよ(笑)」
後藤はチーム本塁打13本のうち3本塁打を放った右の強打者だ。同志社大でもレギュラーとして活躍し、現在は地元・和歌山で医療機器を扱う会社の営業マンとして日々奔走している。
当時の夏の甲子園は、まず3回戦までの組み合わせが決まり、準々決勝以降はその都度、抽選によって対戦相手を決めていたのだが、最初の組み合わせが決まった瞬間、後藤は言葉を失った。
「初戦の新発田農に勝ったら、2回戦が中京大中京(愛知)。さらに勝てば、3回戦はPL学園(大阪)と明徳義塾(高知)の勝者でした。組み合わせを見て、頭の中が真っ白になりました」
それでも智弁和歌山にとっては、絶対に負けられない理由があった。
じつは、前年秋の近畿大会で智弁和歌山は東洋大姫路(兵庫)に初戦敗退を喫してしまった。翌年春に開催されるセンバツ大会の選考も兼ねていたが、普通に考えれば出場は"絶望"のはずだった。
だが、旧チームの主力メンバーが多く残ったこと、直前に出場した熊本国体が台風によりハードなスケジュールを強いられたことも考慮され、近畿大会で1勝もしていないにも関わらず、センバツに選出されたのだ。
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